2021年の新しい年を迎えました。増え続けるコロナウィルス感染者にとうとう愛知県にも緊急事態宣言が発令され「東区を歩こう!」もやはり足並みが遅くなるようです。
主税町三丁目にある旧豊田佐助邸の前を通ると塀の修理が行われていました。通常は公開(月曜日休館)されていたのですが、昨年末から3月半ばまで休館ということです。この邸宅は自動織機の発明で名をなした豊田佐吉の弟、豊田佐助の邸宅として大正12年建築の和館とそれ以前に建てられていた洋館からなっています。現在は所有者のアイシン精機から名古屋市により維持管理されています。石造りの門には門を覆うような見越しの松があったのですが、少し奥に移植されていました。こんな老木を移し替えても再生するのか心配で見守っていきたいです。左手の袖には結構古い梅が植えられていましたが取り払われていました。もうすぐ梅の開花が楽しめたのと思うとちょっと残念です。
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白い養生塀におおわれて中の植栽も間引かれています |
奥に移植された見越しの松 |
★右のカテゴリーから「町並み保存地区、施設、建物」olderから「主税町町並みその5 旧豊田佐助邸」も併せてご覧ください。
禅隆寺の山門改築その後
今年も後わずかで新年を迎えます。町並みの移り変わりも古い家が取り壊されマンション化、老朽化した寺の山門の改修など変わる町並みの様子をお伝えしていますが改築中の様子も見て行きたいと思います。
飯田町バス停前の禅隆寺は毎年紅葉が美しく紅葉狩りの人々や写真愛好家が集いシャッターを切る姿がありました。今年は残念ながら2月頃から始まった山門と塀の改築のため、訪れることは出来ませんでした。清須から移築した山門は400年の年月でとうとう新しく建立されることになりましたが後世に残るものとなるでしょう。完成は年末の予定だったそうですが、やはり宮大工さんの手作業ではなかなか進まないそうです。それでも葵の紋の瓦、懸魚、「興」と読める鬼瓦等を見ることが出来ます。3月のお彼岸には完成?などとお庫裏様からお聞きしました。(続6もご覧ください)
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少し全体が見えてきました。軒瓦には葵の紋 |
鬼瓦「興」の文字は宗興山の山号からかな? |
「東区を歩こう!」を一か月もお休みしてしまいました。
コロナ感染予防のため、少しは自粛もありました。これからももう少しゆったり歩くことになりそうです。
テレビ塔周辺は久屋大通パークとして整備され、9月18日にオープン生まれ変わりました。テレビ塔の足元にある「芭蕉発祥の碑」は以前と変わらず同じ位置に残され、今迄素通りされたこの碑に足を止める人が見られるようになりました。
この地は貞享(じょうきょう)元年(1684)芭蕉が「野ざらし紀行」の旅の途中名古屋に立ち寄り、土地の青年俳人と七部集の第一集「冬の日」を興行したところといいます。
今まで言葉の遊戯でしかなかった俳諧を芸術の領域まで向上させたという句集でこの歌仙を興行した場所を「芭蕉発祥の地」とよんでいる。その場所がテレビ塔東北、宮町筋久屋町西入る南側にあった「傘屋久兵衛宅」という。この碑の場所辺りがその邸宅で昭和41年3月までここは東区久屋町であった。現在は町名変更で中区丸の内三丁目となっている。
又、この碑の右には平成4年、「野いち会」により設置された「名古屋三俳人句碑」があり、寛政の三大俳家の一人とされた東区泉2丁目の大光寺に隣接して居住した「井上士朗」の名も有ります。
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「芭蕉発祥の地」と記された碑 |
右には「名古屋三俳人句碑」がある |
★参考資料 ひがし見聞録 テレビ塔設置の標札
主税町の私邸
東区の町並み保存地区は通るたび、様子が変わり旧宅が取り壊されています。江戸時代は武家屋敷、大正から昭和の初めにかけては企業家たちの邸宅が建ち並ぶ一帯でした。一番に感じるのは何処の家々もその敷地の広さです。幸い昭和20年の戦災も逃れその時代に建てられた邸宅も残っています。橦木町の「文化のみち橦木館」主税町の「豊田佐助邸」などはその一部で、現在はその家の方々が住むのではなく一般に公開されています。私邸もまだ残されてはいますが8月末黒塀に囲まれたある邸宅が取り壊され始め、内部の家の様子が見ることができました。洋館と和館が併置され、黒塀の黒門を通り抜け又小さな門をくぐると和館の横に玄関がしつらえてあるようでした。全く「橦木館」を同じ造りであることを感じ昭和の初めに建てられたのかと想像が出来ます。えっ、又マンションかと思いきや、HR私邸の工事標札を見て安堵しました。どんな邸宅に生まれ変わるのか、時代の流れを受け止めています。
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黒塀に囲まれた私邸 |
この黒門の中の家はどんな家?といつも思っていた |
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洋館と和館が併設されていた |
上の写真黒塀の奥の通り庭 |
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綺麗に整地されその広さは凄い! |
白い工事囲いの奥の蔵とその隣の建物は残された |
泉3丁目2(旧飯田町)の松山神社では毎年恒例の例大祭が10月14日夕刻6時から執り行われました。かつては旧鍋屋町の子供みこしも松山神社に揃い、夜店も出てにぎやかなものでした。年々こうした行事の簡素化、子供達の関心の薄れから最近では例大祭のみとなりました。それでも昨年までは金魚すくい、カラーボール等氏子役員さんが色々楽しみを考えていたようでした。大人にはお神酒、甘酒も振る舞われたのですが、今年はコロナウィルス感染防止から行事も縮小、太鼓の音と神楽だけは昔と変わらない大祭の様子を伺うことが出来ました。
大光寺の山門
大光寺山門が建て替え中の記事はこのブログで6月16日にアップしました。予定より少し遅れ8月半ば頃に完成しました。屋根の軒瓦と鬼瓦にあたる部分には輪宝紋という紋瓦が使われました。車輪に槍が6個又は8個あり輪宝は法輪とも言われ、インドの伝説上の転輪聖王(てんりんじょうおう)が開いたと伝わりこの輪宝を転がして悪を砕いたという説をお釈迦様が継承され、仏教のシンボルとなって広まっていきました。輪宝紋は日本にも仏教伝来とともに伝来し、日本で最も古いものは薬師寺に釈迦の足跡を石に刻んだ「仏足石」がありそこに輪宝紋が刻まれています。仏像を祀ることがなかった時代、信仰の対象としたもので側面の銘文には753年と刻まれています。大光寺の山門は多くの寺にあるように雨樋を使わず昔の形式を取り入れたということです。 昭和40年本堂が建て替えられ、インドのバゴダ(仏塔)風様式で建てられた本堂入口にもこの輪宝紋が金色で飾られています。
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山門の軒瓦の輪宝紋 雨どいは無い |
6個の槍が付いた輪宝紋 |
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本堂全景 入口の上に輪宝紋がある |
本堂入口にの輪宝紋 ここは8個の槍 |
★参考 大光寺住職様のお話し、インターネット
禅隆寺山門改修 その後
禅隆寺の山門がとうとう取り壊されてしまいました。清須から移築した山門は第二次世界大戦の空襲も逃れ、築400年以上も耐えてきましたが老朽化により建て替えられることは7月15日の記事でアップしましたが、その山門が無くなってしまいました。あの立派な山門から覗く秋の紅葉は名古屋市内で見られる紅葉の名所で見事でしたが、今年だけは我慢です。年内には立派な山門が完成また新しい年を刻むことでしょう。
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パイプが置かれた台は山門のあったところ |
内部から元あった山門を見るが、無い無い! |