東区寺巡り (No,5)

By , 2018年10月4日 8:47 PM

谷汲山観音院室寺(むろでら) 泉三丁目7
貞祖院をさらに東へ歩いてみます。旧鍋屋町に出て東へ50mくらいで「圓明寺」がありますがここは前回のシリーズ「戦争の爪痕を残す風景」で紹介したのでリンクして見て下さいね。ここを通り過ぎると南にひし形の舎人公園がありこの公園の北東に「谷汲山観音院室寺」を見つけることが出来ます。すぐ東には国道19号線が走っています。浄土宗の寺で延宝3年(1675)に創建、徳川義直の側室の母のために堂宇を再興したとのことでここも尾張徳川家とのゆかり有る寺です。本尊は11面観世音菩薩像です。No,4で紹介した貞祖院が焼けた天明2年(1782)の大火でそこから程近いこの寺も焼失しました。門前の両側には「谷汲山」と記された石塔があり、美濃の国(岐阜県)にある谷汲山は西国33カ所巡りの結願33番札所です。境内左手には江戸時代後期(文政年間~天保年間)に造られたという西国33カ所巡りの観音石造が祀られ、お揃いの前掛けを着け後世の人々を見守っているようです。しかしながら境内にあった大きな楠木もいつの間にかバッサリ切られ、最近では寂れた感じさえします。近所では「お地蔵様」の寺として親しまれていましたが古老たちがだんだん亡くなりお参りする人も少なくなったようです。

 
観音院室寺
IMG_2578観音院縮小
  本堂前の赤いロウソク立てが、うまく調和している
IMG_2581谷汲山縮小 IMG_2579観音像縮小
 谷汲山と彫られた石塔が左右にある  お揃いの前掛けがかわいい

★参考資料 名古屋市史

東区寺巡り (No.4)

By , 2018年9月27日 7:25 PM

喜秀山 貞祖院 泉三丁目
No,3で紹介した遍照院から少し東へ歩いてみます。この一帯は昭和52年前後の住居表示変更以前は舎人町とよばれていました。今回の貞祖院も徳川家ゆかりの寺で清須城主であった松平忠吉(家康四男)の養母が慶長12年(1607)28歳という若くして亡くなった忠吉の位牌所として清須に建立したのが始まりです。その3年後慶長15年この養母が亡くなり、その戒名から貞祖院玄白寺と称しました。浄土宗の寺で17世紀中ごろまでに清須より当地に移されたと云います。(諸説あるようで門前の標識より)天明2年(1782)の大火により寺坊を焼失、その後は仮本堂が建てられました。明治5年(1873)同じ浄土宗の建中寺より尾張徳川家御霊廟(おたまや)を譲り受けこれを本堂として現在に至っていると云います。幸いにも昭和20年の空襲にもかろうじて難を逃れました。本堂内部は漆喰や天井は外陣は格天井、内陣は折り上げ天井で極彩色です。名古屋における江戸時代建築の遺稿として歴史的価値のあるものです。
残念ながら本堂の中へ通常入ることは出来ませんが、イベント、寺院公開の折には見ることが出来ます。11月3日の「歩こう!文化のみち」のイベントには公開されます。ぜひ見学して下さい。

貞祖院
DSC05292貞祖院縮小
DSC05291本堂 貞祖院格天井071
 貞祖院本堂   本堂外陣の格天井(ひがし見聞録から)

★参考資料 ひがし見聞録、貞祖院由緒書、門前標識、寺社建造物

東区寺巡り (No.3)

By , 2018年9月11日 1:51 PM

摂取山 遍照院(へんじょういん) 泉二丁目

今度は高岳院から東へ一区画隔てただけの寺を案内しましょう。
開山は「尾張名所図会」によると元和の頃(1615~1624)願誉念宗坊とあります。元和7年(1621)堂守の僧、念宗(ねんしゅう)和尚が藩主義直に願い出てこの地を拝領し、知恩院末寺「念宗寺」としました。延宝8年(1680)には遍照院と改称しました。名所図会には本堂の脇に石造の五重塔と地蔵堂が描かれていますが、現在は寺の前の道沿いにお首地蔵と33観音があります。33観音は当寺10世により越後国村上から寺蔵堂を移転したのが始まりです。お首地蔵は昭和11年(1936)に建立され頭痛に効能有りと云われています。この寺は古地図によるとNo.2で紹介した高岳院(こうがくいん)から東に100m程の地にあり、開山当初は地続きでした。清須越の寺ではありませんが尾張徳川家とは係わりのある寺です。昭和20年の戦災、その後の区画整理により高岳院とは離され寺領も狭くなっています。現在は一部駐車場にもなっています。
★参考資料 尾張名所図会、ひがし見聞録

遍照院
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IMG_2564縮小 IMG_2565首地蔵
  境内にある石造五十の塔   33観音の左に置かれた首地蔵

東区寺めぐり(No.2)

By , 2018年9月3日 9:13 PM

持名山 高岳院(こうがくいん) 泉二丁目1
No.1で紹介した大光寺は平岩親吉(ちかよし)ゆかりの寺と紹介しましたがもう一つ平岩親吉ゆかりの寺を紹介したく高岳院まで歩いてみました。
親吉には子供がなく徳川家康の八男仙千代を養子に迎えていましたが慶長5年(1600)6歳で早世、仙千代菩提の為親吉所領のあった甲斐(甲府)に浄土宗の持名山教安寺を建立、その後親吉の国替えと共に清須へ、慶長16年(1611)現在地に移り寺名も仙千代の法名から「高岳院」と名を変えました。当時の寺領は3000坪にも及ぶ広大なものでしたが、明治には800坪程になったと云います。昭和20年の空襲ですべてを焼失、その後国道41号、19号(桜通り)の新設、拡張により寺領は再び狭くなりました。明治4年までは町名は「高岳院前(こうがくいんまえ)」、その後「高岳町(たかおかちょう)」、昭和52年の住居表示に関する法律により「泉2丁目」と名が変わりました。現在では地下鉄桜通り線の駅に「高岳(たかおか)」の名を残すのみです。云われのある町名がだんだんなくなっていくのは寂しいですね
尚、高岳院をこの地に移した慶長16年12月30日に(1600)平岩親吉は死去しました。

高岳院
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 西隣のガソリンスタンド、北のビルも寺領    高岳院山門

★参考 東区の歴史、ひがし見聞録、尾張名所図会

東区寺めぐり (No.1)

By , 2018年8月25日 11:20 AM

「戦争の痕跡を残す風景」シリーズはおりしも終戦記念日の前日に終了となりました。各メディアでもその頃になると戦争の悲惨さを物語る記事が多く取り上げられました。東区でも73年も経過した現在、その痕跡は数少なくなってきましたが忘れてはならない貴重な遺物です。新しいシリーズは「東区寺めぐり」と題してあちこちの寺を探して歩きます。東区に建立されている寺は何らかの形で尾張徳川家に繋がっている寺が多く、すでに「東寺町」と題してこのブログで発信してきました。右のカテゴリーから「東寺町」を選んでご覧ください。各寺にはそれぞれの由緒があります。そんな云われを紹介します。

妙瑞山 大光寺  泉二丁目5 

大光寺
この寺は天文年間(1532~55)甲州武士により群馬県に創建された寺と云います。徳川家康の重臣平岩親吉(ちかよし)のゆかりの寺で日蓮宗の寺です。慶長の初め現群馬県前橋に移り「大光寺」と名を改めました。親吉の国替えで甲府、さらに清須へ移転、慶長15年(1610)清須越で東区の現在地へ移りました。昭和20年3月、B29による空襲で本堂、山門すべてを焼失、その後昭和40年本堂が再建されました。江戸時代の古地図で見ると参道は旧鍋屋町に面してあり、敷地も広大であったようです。

 清須越とは名古屋城築城に伴う清須から名古屋への都市の移転で慶長17年(1612)から元和2年(1616)頃迄に行われました。住民、建物はもちろん、町名、橋の名(五条川は良く知るところ)までも移され、のちに清須越と云われました。「きよす」の文字については明治22年までは清須と表記されていたので今回はこの「清須」を使います。

image1 image1 (010)大光寺本堂
  大光寺山門   本堂はインドの仏塔風の様式です

★ 参考資料 大光寺由緒書、ひがし見聞録、東区の歴史

戦争の痕跡を見る (No.7)

By , 2018年8月13日 2:54 PM

大曾根駅殉職者慰霊碑 東大曽根町
今年の名古屋は異常な暑さで40℃を上回る日もたびたびありました。東区を歩くこともしばらく休止してしまい申し訳ありませんでした。
間もなく73回目の終戦記念日8月15日がやってまいります。JR中央線大曾根駅南口の線路の西側には当時の国鉄職員30人が殉職したという慰霊碑が建てられています。大曾根駅付近では昭和20年4月7日午前11時から2時間アメリカ空軍のB29による激しい空襲を受けました。主目標は三菱重工名古屋発動機製作所でした。この時旧国鉄大曾根駅には約100人の乗客がいましたが、駅員のとっさの判断で乗客を列車に乗せ駅に避難中の中津川行きの列車に乗せ勝川駅まで送り出しました。その後駅員たちは防空壕に避難したものの直撃を受け30人が命を落としました。昭和21年この御霊を偲んで慰霊碑が建てられ石碑の裏には「昭和20年4月7日大曾根駅に於ける殉職者」と題して犠牲になられた30人の氏名が刻まれています。うち12人は女性でありました。この慰霊碑が置かれた場所はかつては大曾根駅南口改札口を入った所にあったものが現在地に移設され、乗降客以外でも目に触れることはできるようになりました。しかしながらここを通る人はほとんどなくなり又もや人々の目に触れる機会がなくなってきたようです。今回も戦争の傷跡ではありませんが、この碑も戦争を思い起こす貴重なものです。

慰霊碑
IMG_2469大曾根慰霊碑
 この位置ではあまり目につかないのが残念です  右の高架がJR中央線、東側に南口改札
IMG_2470慰霊碑No.2 IMG_2471慰霊碑背面
 立派な慰霊碑も今や忘れ去られたように  殉職者30人の名が刻まれています

★参考 ひがし見聞録、 文化・情報・広報誌「風は東から」第2号、第32号

7月の茅輪(ちのわ)神事

By , 2018年7月25日 9:05 PM

松山神社の茅輪神事  泉三丁目
連日の猛暑で熱中症を心配して東区を歩くことを休止しています。しかしながら夜の行事である「茅輪神事」は夕刻から行われ、出かけてみました。この神事は夏越のお祓い(おはらい)で「茅の輪(ちのわ)くぐり」ともいわれ、茅(かや)を太くよって結んだ大きな輪を社殿前に設け、これを八の字を書くようにくぐれば、災厄や疫病を免れると伝えられています。おおむね、7月から8月の初めまでに行われ半年間の無事とこれから半年間の息災を願うものです。実際に回ってみましたが、四手(しで)のついた笹の小枝を持って輪の前で一例して左回りして、輪の前で再び一例して今度は右回り、輪の前に戻ったら真っすぐ本殿に向かい参拝する。という順序です。松山神社は毎年7月25日、その他の神社では30日に神明社、8月1日には八幡社、7日には物部神社で行われます。一度お出かけ下さい。
松山神社の由緒についてはこちらをご覧ください。

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  日没後すぐの明るいい境内    松山神社の鳥居
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   宮司さんから笹の小枝を受け取る    茅の輪をくぐる人達

戦争の痕跡を見る (No.6)

By , 2018年7月1日 11:47 AM

旧市立第三高等女学校の石碑 橦木町二丁目
第二次世界大戦の痕跡を目に出来るものは東区ではすでに発信した5カ所(まだ他にあったら教えて下さい)となりましたが、今回からはこの戦争で犠牲となられた方々を偲ぶ慰霊碑を探して歩きます。戦後73年も過ぎようとしている現在、当時のことを知る人もほとんどなくなってしまいました。橦木町二丁目にある山吹小学校の東には大正12年(1923)旧市立第三女学校が創設されました。ここでは三菱航空機に勤労動員されていた生徒が軍需品を作っていたため昭和20年1月23日の米軍の空襲に遭い防空壕に爆弾が直撃、避難していた生徒42名が爆死しました。焼野原となったこの敷地には仮設簡易住宅、木造平屋建てのバラック住宅85戸が建設されたましたが、その後昭和44年には高層の市営山吹荘が建設され、東には46年山吹小学校の生徒、住民らが憩う「山吹谷公園」も造成されました。昭和56年には爆死した生徒を悼む慰霊碑が「山吹谷公園」の西に卒業生「山稜会」により建立されました。毎年山稜会の有志により1月23日には近くの徳川家菩提寺である建中寺で慰霊祭が行われています。この石碑を見て往時を偲び、語り部となってくれる人もなく、山吹小学校の生徒又、就学前の子供を連れた家族が遊ぶ山吹谷公園の片隅にひっそりとその石碑はあります。

ここに石碑
IMG_1878市立第三高女石碑
 山吹谷公園の西端に二つの石碑がある
IMG_1874校碑 IMG_1877石碑背面
  左が校碑、右が校訓碑  校碑の背面には「昭和20年1月23日」と刻まれている

★参考資料 ひがし見聞録     山吹ものがたり

戦争の痕跡を見る (No.5)

By , 2018年6月21日 9:16 AM

 妙見山了義院 徳川二丁目
了義院は日蓮宗の寺で昔は成就院と称して月見の名所でありました。No.4で紹介した片山神社から2~300m西に在り、この辺りも月見坂と呼ばれ北と東へ下る坂道があり月見の名所であったのでしょう。現在でもなだらかな坂は残り当時を想像することは出来ます。
俳人松尾芭蕉は貞享5年(1688)かねてから三日月を眺める名所と聞いていた大曾根のこの成就院を訪ね、この月見坂から三日月を眺める句を詠みました。「有りとあるたとえにも似ず三日の月」と詠まれたこの句は芭蕉50回忌の寛保3年(1743)に芭蕉門下により句碑が建立されました。しかしながらこの句碑は昭和20年の戦災で破損、その後破損した原碑を繋ぎ合わせて復元しましたが、読み取りにくいことからその横に昭和24年、新碑が建立されました。了義院の句碑については!先に投稿した右のカテゴリーの中の「句碑・石碑を見つけよう!」又はこの赤字をクリックするとリンクできます。繋ぎ合わされたこの碑からも戦争の痕跡を見ることが出来ます。

了義院
1image1了義院 縮小
 片山神社、了義院、又西にある国道19号線にも坂は残る    寺に鳥居? 明治初めまであった神仏習合の名残
image1了義院2縮小 DSC00154縮小
 繋ぎ合わせた石碑。右肩に芭蕉の文字が見える   昭和24年に建立された新碑


★参考資料 ひがし見聞録・東区の歴史・芭蕉入門

戦争の痕跡を見る (No.4)

By , 2018年6月12日 10:41 AM

片山八幡神社の鳥居 徳川二丁目
片山八幡神社の創建は西暦527年に現在の地に鎮座したと云います。旧社名は「大曾根八幡社」と呼ばれその後戦国時代には荒廃し、元禄8年(1695)尾張二代藩主徳川光友により再興しました。この地は名古屋城の鬼門に当たり、鬼門除けの社として信仰されています。
昭和20年の戦災により境内の老樹、建造物の多くを焼失、昭和34年には本殿を造営、平成8年には大改修工事の後平成10年に完工し現在に至っています。境内鳥居の右には先の戦災での弾痕が見られます。戦争の記憶を思い起こす一つです。

image1片山八幡神社正面 縮小 image1片山八幡神社 弾痕
  鳥居奥は本殿   鳥居右の弾痕、中ほどの丸い穴

★参考資料 片山八幡神社縁起・ひがし見聞録

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