昔を語る銘板 (No.4)

By , 2017年9月18日 9:45 PM

徳川園 徳川町
徳川園黒門を入ったすぐ右手に銘板があり、「尾張徳川家大曾根邸/明治末期の風景」と題して明治末期の様子が伺える貴重な写真が掲載されています。徳川園は尾張二代藩主徳川光友が元禄8年(1695)に自らの隠居所大曾根屋敷を造営したことを起源としています。当時の敷地は13万坪、庭園内の泉水には16挺立の舟を浮かべたといわれています。明治23年(1890)尾張十八代当主義礼(よしあきら)が大曾根邸を新築し、明治33年(1900)には侯爵邸に相応しい規模に改築、尾張徳川家の本邸としました。昭和6年(1931)尾張十九代義親(よしちか)は大曾根邸の当時の敷地約9千坪と建物を名古屋市に寄贈、市は翌年「徳川園」として公開しましたが第二次世界大戦によりほとんどの建物や樹林を焼失しました。現在の黒門と脇長屋一帯は焼失を免れた貴重な建物です。
この銘板は東区役所と同時に平成27年3月に設置されました。

IMG_0809銘板全景 IMG_0812地図
 左通路を左に入ると徳川園の庭園   明治期と現在の徳川園の敷地の違いがわかる
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IMG_0803銘板縮小 IMG_0807つるべ
  銘板右上の写真につるべ井戸が写っています
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  焼失を免れ 現在も同じ位置にあるつるべ井戸

★参考資料 ひがし見聞録・徳川園パンフレット・銘板案内

 

3 Responses to “昔を語る銘板 (No.4)”

  1. smash より:

    walkerさま

    徳川園ってのは、美術館が南門、大きな銀杏の木がある、で、結婚式場や公園が西門という記憶でした。
    北の門、大曽根門ですか、の記憶がありません。
    が、新館が出来、西門が主となって、南門が閉じられました。
    公園は、庭園とレストランになったんですね。
    この大きな変貌についていけません。

    お教えいただいた銘板は、篤姫展でも見に行ったら確認します。

  2. walker より:

    smash様コメントを有難うございました。
    徳川美術館は昭和60年に大幅増改築事業が行われ、新館の西側がエントランスとなり旧館の南の門が閉ざされました。
    かつて葵公園と呼んでいた一帯は平成元年から「徳川園」という名になりました。
    現在の庭園とレストランは平成17年のリニューアルによるものです。

  3. smash より:

    walkerさま

    葵公園の方が初耳でした。
    私が中高生だった頃、東区に詳しかった頃ですから、数年前の???ことでしょうか???、もう徳川園だったような。
    名古屋の大きな様変わりは、伊勢湾台風とデザイン博の際でしょうか。
    徳川園の変貌は、黎明会の意向でしょうが、きっかけはデザイン博でしょうか。
    そうそう、オリンピック誘致もありましたね。

    時期的には、山の茶屋での秋のお茶会、南門、本館と過ぎて、庭へ出たような。
    お道具のお茶会と言われ、お会記を拝見するのが楽しみでした。
    読めない字ばかりで。
    懐かしく思い出されます。

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