戦争の痕跡を見る (No.6)

By , 2018年7月1日 11:47 AM

旧市立第三高等女学校の石碑 橦木町二丁目
第二次世界大戦の痕跡を目に出来るものは東区ではすでに発信した5カ所(まだ他にあったら教えて下さい)となりましたが、今回からはこの戦争で犠牲となられた方々を偲ぶ慰霊碑を探して歩きます。戦後73年も過ぎようとしている現在、当時のことを知る人もほとんどなくなってしまいました。橦木町二丁目にある山吹小学校の東には大正12年(1923)旧市立第三女学校が創設されました。ここでは三菱航空機に勤労動員されていた生徒が軍需品を作っていたため昭和20年1月23日の米軍の空襲に遭い防空壕に爆弾が直撃、避難していた生徒42名が爆死しました。焼野原となったこの敷地には仮設簡易住宅、木造平屋建てのバラック住宅85戸が建設されたましたが、その後昭和44年には高層の市営山吹荘が建設され、東には46年山吹小学校の生徒、住民らが憩う「山吹谷公園」も造成されました。昭和56年には爆死した生徒を悼む慰霊碑が「山吹谷公園」の西に卒業生「山稜会」により建立されました。毎年山稜会の有志により1月23日には近くの徳川家菩提寺である建中寺で慰霊祭が行われています。この石碑を見て往時を偲び、語り部となってくれる人もなく、山吹小学校の生徒又、就学前の子供を連れた家族が遊ぶ山吹谷公園の片隅にひっそりとその石碑はあります。

ここに石碑
IMG_1878市立第三高女石碑
 山吹谷公園の西端に二つの石碑がある
IMG_1874校碑 IMG_1877石碑背面
  左が校碑、右が校訓碑  校碑の背面には「昭和20年1月23日」と刻まれている

★参考資料 ひがし見聞録     山吹ものがたり

3 Responses to “戦争の痕跡を見る (No.6)”

  1. yamabuki より:

    久しぶりに山吹谷へ戻りましたね。
    山吹小学校の名前はこの山吹谷から決まったのでしょうか?
    戦後の荒廃が残るあの時期、幼い頃コンクリートが崩れた公園あたりで無邪気に遊んだことを思い出します。幼友達の顔も思い浮かんできますが、懐かしい場所です。
    当時は戦中の悲しい出来事があった事や、女学校があった事なども知らずに夜遅くまで遊んだものです。今はきれいに整備されているようですが、平和のありがたさを改めて知るばかりです。歴史を語る石碑は今何をみつめているのでしょうか?
    猛暑続きの時節、walkerさんお身体をお大事にされてください。

  2. walker より:

    smash様
    戻ってきましたよ。
    山吹谷は江戸時代花の咲く名所であったことが「尾張名所図会」にも紹介されています。谷の名があるようにここら一帯は谷であったわけです。
    何百年を経た現在は痛ましい戦争の記憶を思い出す石碑がたたずんでいます。

  3. HISASHI より:

    この山吹谷公園の直ぐ北にある橦木館は、ほぼ完全に残っています。不幸という言うにはあまりに辛すぎる運命だったと思います。
    橦木館をガイドする度に彼女たちのことをお祈りすると共に、今元気で居られる事に感謝しています。

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