東区寺めぐり (No.1)

By , 2018年8月25日 11:20 AM

「戦争の痕跡を残す風景」シリーズはおりしも終戦記念日の前日に終了となりました。各メディアでもその頃になると戦争の悲惨さを物語る記事が多く取り上げられました。東区でも73年も経過した現在、その痕跡は数少なくなってきましたが忘れてはならない貴重な遺物です。新しいシリーズは「東区寺めぐり」と題してあちこちの寺を探して歩きます。東区に建立されている寺は何らかの形で尾張徳川家に繋がっている寺が多く、すでに「東寺町」と題してこのブログで発信してきました。右のカテゴリーから「東寺町」を選んでご覧ください。各寺にはそれぞれの由緒があります。そんな云われを紹介します。

妙瑞山 大光寺  泉二丁目5 

大光寺
この寺は天文年間(1532~55)甲州武士により群馬県に創建された寺と云います。徳川家康の重臣平岩親吉(ちかよし)のゆかりの寺で日蓮宗の寺です。慶長の初め現群馬県前橋に移り「大光寺」と名を改めました。親吉の国替えで甲府、さらに清須へ移転、慶長15年(1610)清須越で東区の現在地へ移りました。昭和20年3月、B29による空襲で本堂、山門すべてを焼失、その後昭和40年本堂が再建されました。江戸時代の古地図で見ると参道は旧鍋屋町に面してあり、敷地も広大であったようです。

 清須越とは名古屋城築城に伴う清須から名古屋への都市の移転で慶長17年(1612)から元和2年(1616)頃迄に行われました。住民、建物はもちろん、町名、橋の名(五条川は良く知るところ)までも移され、のちに清須越と云われました。「きよす」の文字については明治22年までは清須と表記されていたので今回はこの「清須」を使います。

image1 image1 (010)大光寺本堂
  大光寺山門   本堂はインドの仏塔風の様式です

★ 参考資料 大光寺由緒書、ひがし見聞録、東区の歴史

戦争の痕跡を見る (No.7)

By , 2018年8月13日 2:54 PM

大曾根駅殉職者慰霊碑 東大曽根町
今年の名古屋は異常な暑さで40℃を上回る日もたびたびありました。東区を歩くこともしばらく休止してしまい申し訳ありませんでした。
間もなく73回目の終戦記念日8月15日がやってまいります。JR中央線大曾根駅南口の線路の西側には当時の国鉄職員30人が殉職したという慰霊碑が建てられています。大曾根駅付近では昭和20年4月7日午前11時から2時間アメリカ空軍のB29による激しい空襲を受けました。主目標は三菱重工名古屋発動機製作所でした。この時旧国鉄大曾根駅には約100人の乗客がいましたが、駅員のとっさの判断で乗客を列車に乗せ駅に避難中の中津川行きの列車に乗せ勝川駅まで送り出しました。その後駅員たちは防空壕に避難したものの直撃を受け30人が命を落としました。昭和21年この御霊を偲んで慰霊碑が建てられ石碑の裏には「昭和20年4月7日大曾根駅に於ける殉職者」と題して犠牲になられた30人の氏名が刻まれています。うち12人は女性でありました。この慰霊碑が置かれた場所はかつては大曾根駅南口改札口を入った所にあったものが現在地に移設され、乗降客以外でも目に触れることはできるようになりました。しかしながらここを通る人はほとんどなくなり又もや人々の目に触れる機会がなくなってきたようです。今回も戦争の傷跡ではありませんが、この碑も戦争を思い起こす貴重なものです。

慰霊碑
IMG_2469大曾根慰霊碑
 この位置ではあまり目につかないのが残念です  右の高架がJR中央線、東側に南口改札
IMG_2470慰霊碑No.2 IMG_2471慰霊碑背面
 立派な慰霊碑も今や忘れ去られたように  殉職者30人の名が刻まれています

★参考 ひがし見聞録、 文化・情報・広報誌「風は東から」第2号、第32号

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