Category: ゆかりの地を訪ねて

ゆかりの地を訪ねて (No.5)

By , 2017年4月27日 8:33 PM

東区にある佐吉を支えた人々の邸宅
「ゆかりの地を訪ねて」No.4でアップしたトヨタ産業技術会館での企画展で紹介された11人のうち東区には旧豊田佐助邸、西川秋次邸、旧豊田利三郎邸の門と塀が現存しています。そんな3人の旧宅を紹介します。
★豊田佐助邸
豊田佐助は佐吉の末弟ですが佐吉の織機の評価試験・研究・資金などで支えた人です。主税町の中程に大正5年(1916)建築の木造2階建ての洋館と大正12年(1923)建築の木造2階建ての和館が併設された邸宅があります。敷地面積600坪のこの邸宅で佐助は昭和37年迄暮らし80歳で亡くなりました。その後一時期アイシン精機の福利厚生施設に使われたことがありましたが、老朽化が激しく平成7年に水周り部分の一部が解体されました。現在はアイシン精機から名古屋市が維持管理を委託され公開されています。(月曜日休館)佐助邸について詳しい事はこちらをご覧ください。

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 豊田佐助邸門  左、和館と右洋館

★西川秋次邸

西川秋次066  西川秋次は一貫して佐吉の事業に協力、紡績事業の技術面と上海の紡織事業で経営を支えた人で佐吉の右腕ともいえる人です。佐助邸から程近くに西川秋次邸があります。大正末期に建てられた邸宅は戦災で3階と2階部分を焼失し、改築されましたが、昭和56年取り壊され建て替えられました。門と塀は大正時代創建当時のままの姿で残されています。個人のお宅で了解を得ていませんので今回の紹介はここ迄です。

★旧豊田利三郎邸の門と塀
豊田利三郎は佐吉の長女愛子と結婚し、豊田家に入籍。紡績業主体の事業から繊維機械・自動車等、機械産業事業への拡大・多角化を図り経営者としてグループ経営に携わりました。豊田自動織機初代社長。トヨタ自動車工業の初代社長を務めました。
豊田利三郎邸は白壁町に大正7年(1918)に建設されました。邸宅は昭和60年にマンションとなり、江戸時代の様式を模して造られた薬医門と武者窓を備えた塀が当時のまま残されています。平成3年には都市景観重要建築物に指定されています。マンションと記しましたが様子が一変しました。この記事について次回に続きます。

CIMG0896豊田利三郎邸、門 武者窓2
 薬医門の正門  武者窓のある塀

参考資料 ひがし見聞録・小説西川秋次の生涯・トヨタ産業技術記念館パンフレット

ゆかりの地を訪ねて (No.4)

By , 2017年4月17日 7:05 PM

トヨタ産業技術記念館 西区則武新町4丁目
トヨタ産業技術記念館は現在のトヨタグループの創始者である豊田佐吉の自動織機や喜一郎の携わった自動車部品の制作開発を行った場所であります。このトヨタグループ発祥の地である旧豊田紡織株式会社本社工場跡に1994年に設立されました。今年は豊田佐吉生誕150周年ということで「研究と創造の生涯。佐吉の志と、それを支えた人々」と題して特別展が2月11日から5月7日迄開催されています。特別展示室では佐吉が多大な業績を残し得た背景には、様々な人の支えがあり、発明・研究、事業経営、資金面などで手を差し伸べた11人が紹介されています。その中で佐吉の末弟豊田佐助、佐吉の上海紡織事業の経営を支えた西川秋次が大正時代に住んだ邸宅が東区主税町にあり今でも見ることが出来ます。豊田利三郎宅は白壁町に門と塀が残されています。佐吉、喜一郎も東区に邸宅を構え、豊田一族が大正時代住んだ町でもあります。

DSC0292811人 DSC02948展示全景
  佐吉の志とそれを支えた11人の写真が左に  展示室全景、時代ごとに発明された織機の展示もある
DSC02922産業技術記念館、平吉、佐助 DSC02945西川
  次弟豊田平吉と末弟豊田佐助   上海紡績事業の経営を支えた西川秋次

ゆかりの地を訪ねて (No.3)

By , 2017年4月5日 2:23 PM

湖西市立鷲津小学校
鷲津小学校は豊田佐吉の出身校である川尻小学校の後身です。沿革によると明治6年(1873)鷲津本興寺境内に小学鷲津学校、吉美妙立寺境内に小学川尻学校が創設されました。佐吉は明治8年(1875)下等小学校(小学川尻学校)に入学、4年後の明治12年卒業しました。当時の学校制度では学校に行くことが出来た佐吉は幸せな方でした。卒業後の佐吉は父の大工仕事を継ぐ気もなく、近くの観音堂に毎夜志を同じくする仲間5人の若者と自習的に夜学会を開いていましたが、勉強だけではすまなく「西国立志編」を何度も読むうち発明を志すようになったといいます。佐吉の原点はここにあったのではないでしょうか。記念館から徒歩15分程の小学校、中学校を訪ねてみました。
★参考資料 豊田佐吉(人物叢書)、 小説 豊田佐吉

 
鷲津小学校
DSC02897鷲津小学校校門
  湖西市立鷲津小学校校門
DSC02899校門通路 DSC02898小学校校訓
校門通路に記されたプレート、左のプレートには「私たちは世界の織機王豊田佐吉と同じ学校に学ぶことを誇りとしています」と記されていかす。

湖西市立鷲津中学校
佐吉は小学校を卒業しただけなのでこの中学校に通いませんでしたが、小学校に隣接してあり、校門を入るとすぐに佐吉の胸像と佐吉の語録の書かれた石碑があり、ここにも鷲津の誇りのようなものを感じました。

DSC02884鷲津中学校表札 DSC02886佐吉胸像
湖西市立鷲津中学校校門の表札  佐吉胸像、「障子を開けてみよ 外は広いぞ」

ゆかりの地を訪ねて (No.2)

By , 2017年4月1日 1:46 PM

豊田佐吉記念館展示室
豊田佐吉記念館には正門を入ってすぐ右に展示室を設けています。ここには佐吉の発明した織機や特許証、ゆかりの品を展示しています。展示されている3機の織機を紹介します。
★参考資料 豊田佐吉記念館カタログ

豊田佐吉記念館065 障子を開けてみよ
外は広いぞ
これは佐吉の語録として有名なものです。「障子の向こうには、今迄見えなかった世界が広がる。障子を開けば新しい世界が広がり、可能性が広がる。」というものです。
(佐吉記念館母屋から庭を写した絵葉書使用)
DSC02846明治23年  豊田木製人力織機
明治23年(1890)

これまで両手で織っていたものを片手で織れるように改良したもの。片手でおさを前後させるだけで、シャトルが左右に走るように改良した。
基本的に人間が手で織る機械であった。
DSC02847明治29年  豊田式木鉄混製動力織機
明治29年(1896)
日本で最初の動力織機
横糸が切れたら杼(ひ)が止まり自動で停止する装置で人力から動力を完成した。
布の巻き取り装置も備えた。
DSC02850 大正13年G  無停止杼換式豊田自動織機
(G型自動織機)
大正13年(1914)
高速運転中にスピードを落とすことなく、杼(ひ)を交換して横糸を自動的に補給する。
佐吉が究極の目標に定め、当時世界で最高性能である完全な自動織機。

ゆかりの地を訪ねて (No.1)

By , 2017年3月30日 8:34 PM


豊田佐吉記念館

今年は自動織機発明の豊田佐吉(1867~1930)生誕150年となります。佐吉は静岡県湖西市山口に生まれ地元の鷲津小学校を卒業後、父の後を継ぎ大工となります。明治23年23歳の時、東京で開催された内国勧業博覧会で外国製織機を見て感銘を受けると独力で「豊田式木製人力織機」を発明しました。明治35年にはトヨタグループの原点といえる「豊田商会」を東区武平町(現泉1丁目)に設立、住まいも東区白壁町1丁目(清水口交差点南西)に構えました。東区は自動車王、豊田喜一郎(佐吉長男)、豊田佐助(佐吉末弟)、豊田利三郎(佐吉娘婿)など豊田一族が住んだゆかりの地でもあります。今回は豊田家発祥の地、静岡県湖西市山口にある「豊田佐吉記念館」を訪ねてみました。 トヨタグループが運営する博物館は愛知県内に数多くありますが、唯一愛知県外にあるのが「豊田佐吉記念館」です。ここは豊田家の所有で豊田家三代目である豊田章一郎氏が館長ということです。母屋は残念ながら非公開となっていますが、豊田の社員達も一度は研修に訪れるそうです。高低差のある敷地は浜名湖を見下ろす展望台まで標高40m、冬の晴れた日には冨士山を見ることも出来るそうです
★参考資料 豊田佐吉伝、豊田佐吉記念館カタログ、トヨタ産業技術記念館「赤れんが便り」

鷲津駅
行き方

JR東海道本線
「鷲津駅」より2km 徒歩25分、タクシー5分

DSC02874佐吉記念館全景 DSC02872母屋
  豊田佐吉記念館正面   母屋、佐吉が両親のため明治40年に建設
DSC02845佐吉銅像 DSC02844納屋
  玄関左手の庭にある佐吉銅像   佐吉が父に隠れて研究した納屋を移築
DSC02879生家復元 DSC02877生家内部
  生家、平成2年現在地に復元  生家内部、茅葺屋根、江戸時代後期の農家の形を残す
DSC02880発祥の地 DSC02882展望台
  豊田家発祥の地と刻まれた石碑、元はここに生家   展望台から見下ろす浜名湖

明倫堂、ゆかりの地を訪ねて その2

By , 2015年7月15日 4:13 PM

「永照寺本堂(明倫堂聖堂)」 羽島市福寿町平方
明倫堂ゆかりの地を訪ねて(その1)で紹介した明倫堂聖堂が岐阜県羽島市「永照寺」の本堂として残されているということで訪ねてみました。現中区東照宮にあった「明倫堂」の聖堂は明治維新後の廃藩置県により明倫館も廃止され、聖堂も売却に出され明治6年(1873)に羽島市の永照寺に移され本堂として改築されたという。そのままの場所に残されていたら昭和20年の戦災で焼失していたが移築されたおかげで羽島市の永照寺で聖堂を目にすることが出来るわけです。

DSC00792明倫堂聖堂縮小 DSC00793石碑縮小
 DSC00795浜縁,木階(もっかい)縮小  DSC00801永照寺山門

この聖堂は入母屋、妻入り、唐破風向拝(からはふうこうはい)付、桟瓦屋根(さんがわらやね)、周囲に浜縁(はまえん)を巡らし、正面には木階(もっかい)を設けています。妻入りとは縦長になった側面が正面となった入口のことで、内陣は外陣より2尺以上高くなっているという。向拝は後拝とも書きますが本屋から張り出して設けた庇を設けた部分です。こうした構造は一般寺院には見られない形式で、聖堂の建築も種々の変遷があったようであるが、天明頃の一形式を知る上で貴重な資料という。
昭和30年には岐阜県重要文化財に指定されました。
★参考資料 岐阜県教育委員会社会教育文化課ホームページ

DSC00799本堂内部縮小 永照寺は山号を光明山、浄土真宗大谷派の寺です。1533年に光照寺として開創されましたが、長島一向一揆で破壊されその後永照寺として再興されました。写真は改築された現在の永照寺の本堂内部です。お庫裏様にお願いし、写真を撮らせていただきました。天明7年(1787)の建築ですから築後220年以上も経ています。

 

明倫堂、ゆかりの地を訪ねて その1

By , 2015年7月4日 8:52 PM

「明倫堂趾」石碑 中区丸の内二丁目3
中区丸の内二丁目、東照宮内に「明倫堂趾」石碑があります。明倫堂は尾張9代藩主徳川宗睦(むねちか)により、天明3年(1783)藩士の子弟の教育のため建てた学問所(藩校)でした。儒学者であった細野平洲を初代総裁に迎え、名古屋城郭外南(現東照宮内)に創設しました。武士をはじめ農民、町人の別なく彼の講義に列することを許しました。明治4年(1871)には廃藩置県により廃校となりました。その後は「句碑・石碑を見つけよう!」No.9,No.10で紹介した「私立明倫中学校」「愛知県立明倫中学校」「愛知県立明倫高等学校」合併により「愛知県立明和高等学校」と変遷をたどりました。
なお、東照宮は尾張初代藩主義直公により、家康公逝去3年後元和5年(1619)日光鎮座の式に準じて名古屋城郭内三の丸に鎮座しました。明治9年には明倫堂跡地である現在地へ遷座されました。東に隣接している那古野(なごや)神社はこの辺りの氏神神社ということです。

DSC01378明倫堂 DSC01379縮小2

★参考 「東見聞録」「東照宮の栞」

 

妙興寺に伊藤萬蔵寄進の石像物が!

By , 2012年8月8日 9:21 PM

 徳川園から移設されたという愛知県一宮市にある妙興寺を訪ねていたら佛殿の前に「伊藤萬蔵」と大きく刻まれた線香立てを見つけました。郷里が一宮市であったからきっと一宮市には寄進物は多いのでしょう。萬像さんの寄進物を捜していたらきりが無いほどです。今度こそ「東区を歩こう!」シリーズに戻りたいと思います。

     先回紹介の重層門を通り抜けると佛殿があります。
     この正面に「伊藤萬蔵」と刻まれた線香立てを見つけました。
       奉納   伊藤萬蔵        
     
   

徳川園ゆかりの寺妙興寺を訪ねて

By , 2012年8月6日 10:56 AM

 今年は昭和6年(1931)に尾張徳川家より大曽根邸(大曽根御下屋敷)を名古屋市に寄贈されて80周年となり蓬左文庫においてもその歴史の展示が行われていました。この大曽根邸が現在の徳川園(庭園)です。
 しかしながら昭和20年の空襲で全てが焼失してしまい現在目にするのは正面の黒門とその脇長屋にすぎません。その中でもう一つ残る当時の建築物が愛知県一宮市にあるということで「伊藤萬蔵の石像物」を見つけた帰り「妙興寺」を訪ねてみました。

 尾張二代藩主光友の没後、尾張徳川八代宗勝より屋敷を拝領した犬山城主であった尾張徳川家の付家老・成瀬家五代隼人正正太(ハヤトノショウマサモト)より延享3年(1746)に大曽根邸にあった見事な門を一宮市妙興寺に譲り渡したと棟札に記されています。大曽根邸にあれば焼失したであろうこの門が移築されたことにより現存するのは嬉しいことです。

 この総門は昭和59年3月、「一宮市指定文化財」に指定された三間薬医門で武家屋敷門にふさわしい門であります。昭和34年の台風で倒壊、37年に修復されているそうです。この門をくぐると勅使門、重層門、佛殿と続きその境内の広さには驚くばかりです。

  総門背面から撮影、控えの柱がある薬医門であることが
 解ります。
  総門、勅使門の奥に二階部分にも屋根を持つ重層門があります。三間三戸(サンゲンサンコ)の造りで三間の楼門では左右に仁王像が配置され、中央の一門だけが通行出来るがここは全て通行出来る。

★参考資料 逢左文庫資料、徳川美術館学芸員による中日新聞寄稿、妙興寺表札

伊藤萬蔵、ゆかりの地を訪ねて

By , 2012年7月27日 9:13 PM

 「伊藤萬蔵寄進の石像物を見つけよう!」東区シリーズは前回で終了したのですが、終りにあたってどうしても萬像さんの故郷である一宮市浅野の「常保寺」を尋ねたく一ヶ月を空けてしまいました。
常保寺は実家の菩提寺ということでここに寄進物があることを確かめたく訪れてみました。

 一宮市へ向う国道22号線の東側一帯に
ある「浅埜山 常保寺」
立派な寺で両側が石垣となり左には寺標
がありました。
 上の写真にある山門の手前の左手には
「地蔵菩薩像」が右手には「灯籠」が有りました。良く見ると2基共「伊藤萬蔵」の名が刻まれ驚きでした。左「地蔵菩薩」
明治廿二年十二月
名古屋市西区塩町

右「灯籠」
大正二年十一月
名古屋市西区塩町

道路に面した左右の石垣の中に一対の灯籠を見つけました。正面は「永代常夜灯」内側面には「慶応三年卯十月」外側面には
「先祖代々 平野屋万蔵」と刻まれていました。慶応3年は西暦1867年、翌年は明治元年という時代です。
伊藤萬蔵さんが初めて西区の宗像神社に寄進した狛犬は文久元年(1861)、共同寄進でしたがその6年後個人の寄進となった
ようです。思うに故郷の菩提寺に錦を飾ったということなのでしょう。伊藤萬蔵ではなく屋号の「平野屋」と刻まれ「まんぞう」も「万蔵」の文字が使われていました。
 この「常夜灯」は左右の石垣の上にあり、又樹木に囲まれ写真も撮りにくく、思い切って庫裏の玄関をたたき御住職様にご承諾の上写真を撮らせて頂いたのです。ご親切に枝まで打ち払われ感謝で一杯でした。お聞きするとこの石垣は昭和10年に改築されているそうでこの折現在の位置に移し変えられたようで、かつてどこに置かれたいたか解らないそうです。  

 

 

 

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