小牧山城 小牧市堀の内一丁目地内
小牧山城は永禄6年(1563)織田信長により築城、清須から居城を移したと云われています。その後天正12年(1584)豊臣秀吉と徳川家康による小牧、長久手の戦いでは小牧山に家康の主陣地が置かれ大規模な改修が加えられました。現在そんな主郭地区が小牧市によって発掘調査されています。江戸時代には尾張徳川家の管理のもと保護がなされてきたという尾張徳川家ゆかりの小牧山城跡を訪ねてみました。現在は史跡公園として山頂には昭和43年天守閣風建築の小牧歴史館が完成しました。県道小牧春日井線の南、小牧市役所前の大手口を入り歴史館まで登るすぐ左手に「徳川源明公墓碑」を見つけました。源明公とは尾張中興の祖と云われた九代藩主宗睦(むねちか)公で、元々は尾張徳川家の菩提寺である東区の建中寺にありましたが、昭和28年の区画整理により移転を余儀なくされ徳川家に縁が深いこの小牧山城に移設されたと云います。
小牧山は昭和5年尾張徳川家19代義親氏により小牧市に贈られて以来自然公園として一般市民に親しまれてきました。昭和60年小牧山が市に贈られて満55年、又市制30周年を記念してこの山頂近くに義親氏の銅像が建立されました。名古屋市東区にある徳川園も昭和6年庭園と邸宅が義親氏により名古屋市に寄贈されましたが、同じ頃の寄贈であったと改めて思いを新たにします。
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この階段を登る途中に像がある 頂上には小牧歴史館 |
井持浦教会「ルルドの洞窟」 長崎県五島列島 五島市玉野浦
★カトリック主税町記念聖堂
今回も足をのばしてゆかりの地を訪ねます。東区主税町3丁目には「カトリック主税町記念聖堂」があります。この教会は明治20年(1887)フランス人宣教師によって名古屋で初めて造られたカトリック教会で東海三県下では最も古い教会です。しかしながら平成26年(2014)120年以上続いた教会の機能が移管され現在では記念聖堂となっています。この教会の敷地内に「ルルドの洞窟」があり明治42(1909)年に造られた日本で2番目に古いものです。そこで一番古い「ルルドの洞窟」が長崎県五島列島にあるということではるか遠方まで出かけてみました。
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名古屋市東区 「カトリック主税町記念聖堂」 |
カトリック主税町記念聖堂 「ルルドの洞窟」 |
★井持浦教会
五島列島の南の島、福江島までは福岡空港又は長崎空港から飛行機又はフェリーでしか行けず非常に不便な島です。今回ある旅行社のチャーター便で小牧空港から福江空港FDA(フジドリームエアライン)で1時間半、何とも短時間で行くことが出来ました。福江島は幕府による禁教令により長崎外海(そとめ)からキリシタンの五島への移住が始まり、潜伏キリシタンとしてこの地に残り明治になって復活期を迎えました。玉野浦には明治30年(1897)フランス人宣教師により煉瓦造の教会「井持浦教会」が建設され、2年後の明治32年には「ルルドの洞窟」が建造されました。五島のあちこちから集められた奇岩、奇石が信徒達の奉仕により日本最大の洞窟が建造され、ルルドの聖母像はフランスから取り寄せて洞窟内に収められたといいます。こうして日本最初のルルドが造られ、参詣者が後を絶たずルルドの霊水を求めて訪れているそうです。昨年はこの五島列島にある二つの島が五島市の二つの構成資産を含む「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産の登録が決定しました。
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長崎五島列島 「井持浦教会」 |
井持浦教会 「ルルドの洞窟」 |
★フランスのルルドの由来
ルルドの洞窟はフランスとスペインの国境にあるフランス側ピレネー山脈の麓にあるルルドという洞窟でベルナベッタという14歳の少女のもとに聖母マリア様が出現、実に18回の出現が彼女にもたらされました。聖母マリア様は洞窟の水を掘るように命じ、湧きだした霊泉の水により難病がいやされ不幸、災難から救われるなど多くの奇跡が起こりたちまちカトリック最大の巡礼地になりました。現在もルルドの洞窟には年間5~600万人の人々が巡礼に訪れているそうです。
堀江山長谷院(ちょうこくいん) 愛知県清須市桃栄3-80
東区寺社巡りから足を延ばして「ゆかりの地を訪ねて」として清須にある「長谷院」に出かけました。
この寺には江戸時代東区にあった「お下屋敷(おしたやしき)」の中に建立されていた「多宝塔」が移転されているという報が昨年(2018)9月名古屋市逢左文庫で開催された「尾張藩邸物語」で公開され、徳川美術館館長にお聞きしても最近判ったということです。早速訪ねてみようと名鉄電車「須ヶ口」駅で降り、徒歩7分くらいのところにありました。「堀江観音」の名で親しまれる尾張33カ所2番札所てなっており、永享年間(1429~1440)頃の創建、浄土宗の寺ですが、今は無人となっています。
東区にある「お下屋敷」は尾張二代藩主光友により尾張藩の別邸として延宝7年(1679)に造営されました。後に質素倹約を旨とする八代将軍吉宗と規制緩和政策をとった尾張七代藩主宗春と対立し、この屋敷に蟄居謹慎になったことはよく知られています。天明2年(1782)の大火で屋敷や庭園のほとんどを焼失、その後には多宝塔が尾張十代藩主徳川斉昭(なりとも1793~1850)によりお下屋敷に寄進されました。天保5年(1834)にはお下屋敷にあった仁王門、多宝塔、明王堂などが清須の「長谷院」に移築され名古屋の商人、杉屋佐助(米穀商)の努力で寺観が整えられていきました。しかしながら江戸期の建物は現在では多宝塔」のみとなりその他は戦後建て替えられています。東区のお下屋敷一帯は明治になって壊され広大な土地が大正期まで残されました。この中にあった多宝塔も長谷院へ移転したから残った貴重な遺産です。
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塔は石組の基壇に建っています |
戦後建て替えられた仁王門 |
★多宝塔とは平面が方形の初層の上に平面が円形の上層を重ね四角錐形の屋根を有する二重塔の形を言います。
★注) 多宝塔はお下屋敷から「長谷院」へ移転したことは「尾張藩邸物語」で確かです。又境内の標識にもお下屋敷から寄付されたと書かれています。しかしながらどのブログ、書き込みを見てもそのことは記載されず斉昭寄進とのみ書かれています。寄付された年代が分かればよいのですが、もう少し調べてみます.
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軒瓦には葵の紋がありますが、下層部の瓦は紋がない
おそらく修理後にこのようになったのでは。 |
本堂左にあった標識、これからは年代は
読み取れません。 |
★右の標識には美濃路から分かれた津島街道が境内を通り、名古屋からの観音参り、甚目寺、津島への参詣者を迎え「尾張名所図会」にはその賑わいが描かれています。写真の上でクリックすると大きくなります。
★参考資料 ひがし見聞録、長谷院境内標識、近所の方の聞き取り、ウキペディア
東区にある佐吉を支えた人々の邸宅
「ゆかりの地を訪ねて」No.4でアップしたトヨタ産業技術会館での企画展で紹介された11人のうち東区には旧豊田佐助邸、西川秋次邸、旧豊田利三郎邸の門と塀が現存しています。そんな3人の旧宅を紹介します。
★豊田佐助邸
豊田佐助は佐吉の末弟ですが佐吉の織機の評価試験・研究・資金などで支えた人です。主税町の中程に大正5年(1916)建築の木造2階建ての洋館と大正12年(1923)建築の木造2階建ての和館が併設された邸宅があります。敷地面積600坪のこの邸宅で佐助は昭和37年迄暮らし80歳で亡くなりました。その後一時期アイシン精機の福利厚生施設に使われたことがありましたが、老朽化が激しく平成7年に水周り部分の一部が解体されました。現在はアイシン精機から名古屋市が維持管理を委託され公開されています。(月曜日休館)佐助邸について詳しい事はこちらをご覧ください。
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豊田佐助邸門 |
左、和館と右洋館 |
★西川秋次邸
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西川秋次は一貫して佐吉の事業に協力、紡績事業の技術面と上海の紡織事業で経営を支えた人で佐吉の右腕ともいえる人です。佐助邸から程近くに西川秋次邸があります。大正末期に建てられた邸宅は戦災で3階と2階部分を焼失し、改築されましたが、昭和56年取り壊され建て替えられました。門と塀は大正時代創建当時のままの姿で残されています。個人のお宅で了解を得ていませんので今回の紹介はここ迄です。 |
★旧豊田利三郎邸の門と塀
豊田利三郎は佐吉の長女愛子と結婚し、豊田家に入籍。紡績業主体の事業から繊維機械・自動車等、機械産業事業への拡大・多角化を図り経営者としてグループ経営に携わりました。豊田自動織機初代社長。トヨタ自動車工業の初代社長を務めました。
豊田利三郎邸は白壁町に大正7年(1918)に建設されました。邸宅は昭和60年にマンションとなり、江戸時代の様式を模して造られた薬医門と武者窓を備えた塀が当時のまま残されています。平成3年には都市景観重要建築物に指定されています。マンションと記しましたが様子が一変しました。この記事について次回に続きます。
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薬医門の正門 |
武者窓のある塀 |
参考資料 ひがし見聞録・小説西川秋次の生涯・トヨタ産業技術記念館パンフレット
湖西市立鷲津小学校
鷲津小学校は豊田佐吉の出身校である川尻小学校の後身です。沿革によると明治6年(1873)鷲津本興寺境内に小学鷲津学校、吉美妙立寺境内に小学川尻学校が創設されました。佐吉は明治8年(1875)下等小学校(小学川尻学校)に入学、4年後の明治12年卒業しました。当時の学校制度では学校に行くことが出来た佐吉は幸せな方でした。卒業後の佐吉は父の大工仕事を継ぐ気もなく、近くの観音堂に毎夜志を同じくする仲間5人の若者と自習的に夜学会を開いていましたが、勉強だけではすまなく「西国立志編」を何度も読むうち発明を志すようになったといいます。佐吉の原点はここにあったのではないでしょうか。記念館から徒歩15分程の小学校、中学校を訪ねてみました。
★参考資料 豊田佐吉(人物叢書)、 小説 豊田佐吉
校門通路に記されたプレート、左のプレートには「私たちは世界の織機王豊田佐吉と同じ学校に学ぶことを誇りとしています」と記されていかす。 |
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湖西市立鷲津中学校
佐吉は小学校を卒業しただけなのでこの中学校に通いませんでしたが、小学校に隣接してあり、校門を入るとすぐに佐吉の胸像と佐吉の語録の書かれた石碑があり、ここにも鷲津の誇りのようなものを感じました。
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湖西市立鷲津中学校校門の表札 |
佐吉胸像、「障子を開けてみよ 外は広いぞ」 |
「永照寺本堂(明倫堂聖堂)」 羽島市福寿町平方
明倫堂ゆかりの地を訪ねて(その1)で紹介した明倫堂聖堂が岐阜県羽島市「永照寺」の本堂として残されているということで訪ねてみました。現中区東照宮にあった「明倫堂」の聖堂は明治維新後の廃藩置県により明倫館も廃止され、聖堂も売却に出され明治6年(1873)に羽島市の永照寺に移され本堂として改築されたという。そのままの場所に残されていたら昭和20年の戦災で焼失していたが移築されたおかげで羽島市の永照寺で聖堂を目にすることが出来るわけです。
この聖堂は入母屋、妻入り、唐破風向拝(からはふうこうはい)付、桟瓦屋根(さんがわらやね)、周囲に浜縁(はまえん)を巡らし、正面には木階(もっかい)を設けています。妻入りとは縦長になった側面が正面となった入口のことで、内陣は外陣より2尺以上高くなっているという。向拝は後拝とも書きますが本屋から張り出して設けた庇を設けた部分です。こうした構造は一般寺院には見られない形式で、聖堂の建築も種々の変遷があったようであるが、天明頃の一形式を知る上で貴重な資料という。
昭和30年には岐阜県重要文化財に指定されました。
★参考資料 岐阜県教育委員会社会教育文化課ホームページ
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永照寺は山号を光明山、浄土真宗大谷派の寺です。1533年に光照寺として開創されましたが、長島一向一揆で破壊されその後永照寺として再興されました。写真は改築された現在の永照寺の本堂内部です。お庫裏様にお願いし、写真を撮らせていただきました。天明7年(1787)の建築ですから築後220年以上も経ています。 |