Category: 伊藤萬蔵
伊藤萬蔵、ゆかりの地を訪ねて
「伊藤萬蔵寄進の石像物を見つけよう!」東区シリーズは前回で終了したのですが、終りにあたってどうしても萬像さんの故郷である一宮市浅野の「常保寺」を尋ねたく一ヶ月を空けてしまいました。
常保寺は実家の菩提寺ということでここに寄進物があることを確かめたく訪れてみました。
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一宮市へ向う国道22号線の東側一帯に ある「浅埜山 常保寺」 立派な寺で両側が石垣となり左には寺標 がありました。 |
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上の写真にある山門の手前の左手には 「地蔵菩薩像」が右手には「灯籠」が有りました。良く見ると2基共「伊藤萬蔵」の名が刻まれ驚きでした。左「地蔵菩薩」 明治廿二年十二月 名古屋市西区塩町 右「灯籠」 |
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道路に面した左右の石垣の中に一対の灯籠を見つけました。正面は「永代常夜灯」内側面には「慶応三年卯十月」外側面には
「先祖代々 平野屋万蔵」と刻まれていました。慶応3年は西暦1867年、翌年は明治元年という時代です。
伊藤萬蔵さんが初めて西区の宗像神社に寄進した狛犬は文久元年(1861)、共同寄進でしたがその6年後個人の寄進となった
ようです。思うに故郷の菩提寺に錦を飾ったということなのでしょう。伊藤萬蔵ではなく屋号の「平野屋」と刻まれ「まんぞう」も「万蔵」の文字が使われていました。
この「常夜灯」は左右の石垣の上にあり、又樹木に囲まれ写真も撮りにくく、思い切って庫裏の玄関をたたき御住職様にご承諾の上写真を撮らせて頂いたのです。ご親切に枝まで打ち払われ感謝で一杯でした。お聞きするとこの石垣は昭和10年に改築されているそうでこの折現在の位置に移し変えられたようで、かつてどこに置かれたいたか解らないそうです。
名鉄瀬戸線に「社宮祠(しゃぐじ)停留所」が?
前回の社宮司神社を尋ね歩いていたら東区芳野町近辺にかつて名鉄瀬戸線「社宮祠停留所」があったことを知り、ビックリでした。この辺りの瀬戸線は北区と東区の区界であり、平成2年9月からは高架となっています。この尼ケ坂駅と森下駅間0.9kmの間に大正、昭和の初めまで「社宮祠停留所」があったということでした。
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国道41号線と交わる清水駅の東にある駅です 地図上では北区にあります |
平成2年からは高架となりました |
この路線の歴史は古く「瀬戸電気鉄道」を前身とし、明治38年矢田~瀬戸間の一部開通、その後市内線として明治44年10月には堀川駅まで延伸され、名古屋城の外堀を経路として建設された珍しいものでした。昭和14年には「瀬戸電気鉄道」は名古屋鉄道と合併して「名鉄瀬戸線」となりました。
「社宮祠停留所」は明治44年5月開業、昭和19年営業休止、正式な廃止は昭和31年ということです。当時は清水から東へ尼ケ坂、師範下、社宮祠、坂下、森下と続き、今ではこの間の三駅が廃止されています。駅と駅の間はわずか200~300mぐらいのところもあり、隣の駅が見えるほどでした。社宮祠神社参拝のため瀬戸線に乗り、この駅で大勢の人達が乗り降りしたのかと当時を偲ぶ思いです。
★上の路線図は大正13年「瀬戸電気鉄道株式会社」発行の時刻表の中の路線図です。この路線図には表記されていませんが、「第一師範学校(後の愛知教育大学)が南の高台にあり、その下に師範下駅があったということです。開業は明治44年と記録に残されていますが、廃止の日付が不明のようで、この路線図発行の頃にはすでに廃止されていたのかもしれません。
★参考 瀬戸線の歴史90年 われらが「せとでん」激動のドラマ
せとでんの歴史 「前島一廣」
瀬戸電鉄沿線案内
伊藤萬蔵について(その3)
萬蔵の石造物寄進の最初は29歳の時で文久元年(1861)西区にある「宗像(むなかた)神社」への狛犬の寄進でした。でもこれは3名の連名による共同寄進でした。その後単独での寄進は慶応3年(1867)実家の菩提寺である「常保寺」(現一宮市浅野)に石灯籠一対を寄進したのが最初、この時35歳でした。ここには「平野屋万蔵」と屋号で彫られているという。きっと成功したあかしを故郷に飾りたかったのでしょう。
最後の寄進は大正15年(1925)9月、知多四国五十九番札所「玉泉寺」(現常滑市大谷)で92歳でした。この間65年にわたって石造物を寄進し続けたことになります。萬蔵が生きた時代は三百余年続いた幕府が崩壊、明治新政府に移行する激動の時代でこの機会を逃すことなく波に乗ったようです。
亡くなるまでに一体どれだけの石造物が寄進されたのか、北海道を除く全国にあるといいます。次回からは「東区にある萬蔵寄進の石造物」シリーズとしますが今回、共同寄進である「宗像神社」へ出かけてみました。機会あれば他の2箇所も訪ねてみたいと思っています。
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西区上名古屋二丁目、浄心近くにある宗像神社 | えっ!石造物とばかり思っていましたが狛犬は青銅! |
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正面に3名の名が、伊藤萬蔵は右から3人目、 この時の彫りの深さは浅く、文字も小さい 写真の上でクリックすると大きくなります |
裏に回ると「文久元年酉年」と刻まれている 今から約150年前ということになります |
★驚いたことに青銅の狛犬とは・・・。石造物とばかり思っていましたが、他にもあるのでしょうか?
参考 石造物寄進の生涯 伊藤萬蔵
伊藤萬蔵について(その2)
萬蔵の住宅があった塩町(しおちょう)は堀川にかかる景雲橋西側の南部分です。塩町は開府当初、清須越による塩商人が多く住んだことから寛文7年(1667)にはこの町名となりましたが後に米の先物取引をする「延米(えんまい・のべこめ)商売」をする業者の居住する町へと変わっていきました。萬蔵はこの業界に丁稚として住み込み商人としての第一歩を踏み出し、米の投機を覚え塩町四丁目に屋号「平野屋万蔵」を立ち上げ相場師として活躍することになるのです。
明治10年には景雲橋上流、塩町三丁目6番地に取引所「名古屋米商会所」が開業、その発起人の一人として「伊藤萬蔵」の名があります。しかしこの業界から以外に早く身を引き金融業、貸家業へと移り、そこから上がる莫大な利益を得たのでした。萬蔵はこうして一代で財を築き石造物の寄進につぎ込みました。
「なぜ寄進されたのは石製品ばかり?」というのは建造物などではいつかは痛み修復が要る。子孫に迷惑がかからないようにとの配慮もあったのではないかという説もあります。
★写真は「石造物寄進の生涯・伊藤萬蔵」から頂きました
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浅間神社(西区那古野一丁目)昨年5月撮影 | 伊藤萬蔵寄進の狛犬 (赤いよだれかけは通常、稲荷 神社でキツネにかけられているようですが) |
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左の狛犬 納 右の狛犬 奉 蔵萬籐伊 塩 當 町 市 |
★塩町西の四間町(しけみち)の又西にある浅間(せんげん)神社で萬蔵寄進の石造物を見つけました。
筆太の行書体で彫りの深さは人差し指の第一関節が入るくらいあります。
次回伊藤萬蔵について(その3)をアップした後いよいよ「東区の伊藤萬蔵寄進の石造物を見つけよう!」とします。
伊藤萬蔵について(その1)
★まん蔵の「まん」は中日新聞「あいち賢人」又「平野屋万蔵」として「万」と使われたこともありましたが、石造物を見ると「萬」のようですので以後「萬蔵」とさせて頂きます。
伊藤萬蔵は江戸後期の天保4年(1833)に愛知県一宮市の農家に生まれましたが、家貧しく農産物を売りに名古屋まで大八車で
一日2回往復したと云います。その後名古屋城下の米穀商に奉公に出されました。
明治になり時流にも乗り、米の仲買、株取引、金融、賃家業と手を広げ巨万の財力を得たといいます。昭和2年(1927)94歳で死去しましたが天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和と実に11代の元号を生き抜いた人でした。明治から大正にかけて全国の社寺に灯籠、狛犬、香台などの石造物を寄進、東大寺、高野山、京都、奈良などの名刹、その数は確認されたものだけでも450基以上、一説には1000基を越えると云われています。自宅は美濃路沿いの名古屋市西区塩町(しおちょう)四丁目でしたが、子孫は戦前に昭和区に転居されました。跡地は現在駐車場となっています。
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この駐車場奥には平成20年頃までは6棟あった蔵の 1棟だけが残っていたそうです。 |
かつて塩町四丁目十五番地、現在は那古野一丁目です。 |
★伊藤萬蔵についてはもうすこし詳しく説明をしてから「伊藤萬蔵寄進の石造物を見つけよう!」シリーズとします。
★参考 中日新聞「あいち賢人」伊藤万蔵
石造物寄進の生涯・伊藤萬蔵 発行所 ブックショップ 「マイタウン」
名古屋人の反省「名古屋奇人伝「伊藤萬蔵」さんを追う! 発行所 ブックショップ 「マイタウン」