長母寺の線香立て その2
本堂左手に開山堂があります。ここにはこの長母寺に移り住んだ「無住国師和尚座像」が安置されています。国指定重要文化財で毎年十月十日の開山忌に開帳しています。線香立ては開山堂正面にあります。
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開山堂の正面にあります |
奉納 名古屋市
伊藤萬蔵
西區塩町 |
★ 建立年月はありません。とても彫りの深い文字となっています。
長母寺の花立(矢田3-13-71) その1
長母寺は「百度石を見つけよう!」で紹介した寺で矢田川をはさんで北は守山区、南は東区となっています。この川の南、東区の北東に長母寺があります。矢田川はかつて長母寺の南を流れていましたが、明和4年(1767)の洪水により流路が大きく変わったということです。
弘長2年(1262)無住国師の来訪により臨済宗と改め、没するまでの約五十年間を長母寺で過ごし、仏教を解りやすく説き、民衆心の教化に務めたといいます。
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上の写真で見る山門前の右にお地蔵様の前にある花立 |
左右一対の花立正面に伊藤萬蔵と刻まれています
建立年月は刻まれていません |
徳源寺の線香立 その2
徳源寺の山門を入り、左に行くと境内奥に「南無馬頭観世音菩薩」と刻まれた石像があります。その前に萬像寄進の線香立を見つけました。
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屋根のついた立派な線香立です。その後ろに石像があります |
「南無馬頭観世音菩薩」 |
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左側面 名古屋市西區塩町
伊藤萬蔵 |
右側面 大正二年八月建之 |
★ その1で紹介した寺標は建立年月がありませんでした。この線香立には大正二年と刻まれています。書体も今回は今までと同じ草書体です。きっと寄進年月が違ったのでしょう。
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徳源寺の寺標 (新出来1-1-19) その1
徳源寺は徳川園の南辺りで基幹バス通りにあります。臨済宗妙心寺派の寺で文禄2年(1593)織田信長の次男、織田信雄(のぶかつ)が熱田に清凉山宝泉寺を建立。寛文2年(1662)愛知郡石仏村(現昭和区石仏町)に移り、蓬莱山徳源寺と改めた。延享元年(1744)には現在地に移転しました。文久2年には徳川慶勝は禅宗修行僧の修行道場を開設した。今も多くの修行僧が禅修業に励んでいますが、民間座禅会も週1回行われているそうです。
太平洋戦争で本堂と庫裏を焼失、昭和28年再建されました。
この山門は明治45年の建立で基幹バス通りに面しているのでなく、敷地の東側にあります。寺標はこの山門の左右にあり一対となっています。
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左寺標 正面 徳源禅刹
側面 伊藤萬蔵 |
右寺標 正面 蓬莱霊山
側面 名古屋市塩町 |
★伊藤萬蔵の書体が今までの太く彫りの深い草書体ではなく、線の細い行書体で刻まれています。きっと石工が違ったのでしょう。
建立月日はありませんでした。
建中寺(筒井1-7-57)
花を求めて又、道草をしてしまいました。建中寺の前をいつも通っているのに三門右手にある大きな寺標に気をとられ、その脇にある標石を見逃していました。この建中寺は「百度石を見つけよう!」でもご案内した寺で尾張徳川家の菩提寺です。二代藩主光友が藩祖義直の菩提を弔うため建立したものです。本尊は阿弥陀如来坐像です。
建中寺と刻まれた寺標の左にあるのが伊藤萬蔵寄進の標石です。
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左面 名古屋市西區塩町
伊藤萬蔵 |
正面 阿弥陀如来四十八願所
第一札所 建中寺 |
右面 明治四十二年十月 |
★阿弥陀如来四十八願所についてはウィキペディアをご覧下さい。
片山神社の狛犬と献灯台 (芳野2-4-28)
長久寺山門前の道を北に下る坂道、尼ケ坂があります。この坂を下りきると瀬戸電の尼ケ坂駅があり、その東に片山神社があります。ここは名古屋台地の北の端でこの坂の下は低地水田の地域であったので片山の名は「片方が山」という地形から由来しているようです。
創建は和銅2年(709)といい、かつては蔵王の森と呼ばれていましたが、今でもうっそうとした木々に覆われています。ここは「百度石を見つけよう!(7)」でも紹介した神社です。
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本殿左の末社前に、狛犬一対とその前に献灯台が
あります |
献灯台柱左側には 名古屋市西區塩町
伊藤萬蔵
右側には 大正十年十月 と刻まれている |
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左狛犬台座の左面には 明治廿八年十二月
と刻まれています |
右狛犬台座の左面には 當市塩町四丁目
伊藤萬蔵 と刻まれている |
★建立年からみると明治28年に狛犬が、大正10年に献灯台が寄進され二度に渡る寄進であったことが解ります。
社宮司神社の標石 (芳野2-8)
この社宮司神社は尾張徳川義直の付家老として三万石を有した竹腰正信公が貞亨元年(1684)に新屋敷と称した別邸内の鬼門の方に守護神として「伊斯許理度賣命」(イシコリドメノミコト)を祀った神様で、祭神は鏡を司る大神です。
竹腰家は守護神として屋敷内にこの大神を祀ったため一般の参詣は出来ず只家臣のみ参拝は許されたという権威ある社でした。明治維新となり竹腰家は東京に邸を移し、その後は家臣である現当主の先祖が当屋敷を受け継いだため一般の参詣も出来るようになり明治4年頃以来一般の人々が参詣し「症気・症病の平癒を祈願する霊顕著しく」次第に参詣者が増し遠方までも知れ渡ったと云います。
現在は戦後の道路拡幅などにより境内も狭くなっていますが、今も竹腰家家臣によりこの社は受け継がれています。
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参道左側に標石が見られ正面には「伊斯許度蕒命」と
刻まれています |
右側面 名古屋市西區塩町
伊藤萬蔵 (建立年はありません) |
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参道奥の社の左に倒れている標石が有りました
正面には「石凝嫗命」(イシコリドメノミコト)
左側面には 明治四十年十二月建之
良く見るとなぜか建立年月がセメントで埋められいました |
右側面には 名古屋市塩町
伊藤萬蔵 と刻まれています |
★ 参考 社宮司神社による「来歴及び趣意書」
竹腰正信についてはウィキペディアをご覧下さい。義直公の異父兄であったことが書かれています。
「伊斯許理度賣命」「石凝嫗命」は「古事記に出てくる表記です。ウィキペディアをご覧下さい。
長久寺の石仏(如意輪観音) その2
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山門を入って突き当たりにあります |
正面下基壇 市内西區塩町
伊藤萬蔵 |
★右側面には 大正九年・・月建之 と刻まれていますが何月か読めません。その1で紹介した手洗い鉢は明治三十六年八月建之と刻まれているのが良く読めますが、この如意輪観音は風化が激しく読みづらくなっているようです。
長久寺の手洗い鉢 その1 (白壁3-24)
長久寺の山門を入って参道の左手に手洗い鉢があります。いつも何気なく使っているので側面に「伊藤萬蔵」の文字があるのに気づきませんでした。
右には可愛いお地蔵様もありました。この長久寺は「道標を見つけよう!」シリーズで道標地蔵として紹介しました。くわしくはこちらをクリック下さい。
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この手洗い鉢右側面に「伊藤萬蔵」の文字がはっきり読めます |
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