Category: 城東の坂を歩こう!

城東の坂を歩こう! (No.11)

By , 2016年10月2日 1:45 PM

「徳川園黒門前の坂」 徳川町
城東の坂も次第になだらかな坂となり、名古屋台地の端まで歩いて来たことが分かります。徳川園西側黒門前の道路も北へ下るなだらかな坂道となっています。街路樹にはハクモクレン」が植えられ3月後半には綺麗に咲き誇ります。徳川園は尾張藩二代藩主徳川光友により自らの隠居所として大曾根屋敷を造営したことによるものです。当時の敷地は約13万坪、東西の幅は現在の出来町通り山口町交差点からJR中央線まで900mもあったといいます。ということはこの「城東の坂を歩こう!」では山口町辺りからこの徳川園に至るまですべて大曾根屋敷の中にあったわけです。大曾根屋敷はそんな起伏にとんだ敷地にありました。現在の黒門は 明治33年18代義礼が壮麗な大御殿を竣工、その後昭和20年の空襲で焼け残った貴重なものです。

黒門前の坂
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徳川園の東、出来町通り出来町交差点から徳川美術館北交差点までにも北に下る坂道があります。分離帯のある広い道路ですが、坂は残っています。

美術館北交差点を望む
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城東の坂を歩こう! (No.10)

By , 2016年9月15日 8:52 PM

「大曾根坂」徳川2丁目
いよいよ名古屋台地の東端近くまで歩いてきました。関貞寺の東には片山八幡神社があります。ここは元禄8年(1695)尾張二代藩主光友が荒廃していたこの社を再興したのが起源となっています。この地は名古屋城の鬼門に当たるということで鬼門除けの社となりました。片山八幡の東側の坂も北の眺望が絶佳を云われてきましたが、現在はなだらかな坂となり当時の様子を偲ぶことは出来ないようです。この道は南へ行くと山口町となり江戸時代この地に「相応寺」がありました。尾張藩祖徳川義直の生母(お亀の方)の菩提寺として創建されたものです。大正から昭和のはじめに名古屋市が発展していく中、白壁地区と大曾根地区の中間に位置してこの広大な敷地が発展を阻害しているということで昭和6年頃、千種区への移転となりました。この移転により赤塚から大曾根への電車通りが出来、東区は発展に及んだといえます。

大曾根坂
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 左の森が片山八幡神社、北へ下るなだらかな坂  名古屋鬼門鎮護と書かれている

城東の坂を歩こう! (No.9)

By , 2016年9月5日 8:53 PM

「月見坂」徳川2二丁目
芳野ケ丘から又東へ、国道19号線を渡ると「妙見山了義院」とその東に「松林山関貞寺」が大曾根公園をはさんで並んでいます。了義院は日蓮宗で清須越の寺、関貞寺は曹洞宗の寺で寛永7年(1630)創建の寺です。両寺の西と東にも北へ下る坂があり、名古屋台地の北端に位置し北方の眺めが良く、了義院は「尾張名所図会」「尾張名陽図会」に月見の名所として記載があります。芭蕉は貞享5年(1688)7月、かねてから三日月を眺める名所と聞いていた大曾根のこの寺を訪ね、折からの三日月を「有りとあるたとえにも似ず三日の月」と詠んだ。 又、関貞寺は「尾張名所図会」に名古屋三景の一つとして書かれています。残念ながら坂も宅地造成によりなだらかになり、北にも住宅マンションが建設され月見の名所とは言い難いものとなっています。それでも気を付けて見ると国道19号線、芳野三丁目バス停から大曾根方面に向かうなだらかな坂に当時を偲ぶことができます。

了義院西の坂
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  北に下る月見坂
DSC02047了義院 DSC02054関貞寺
 了義院(日蓮宗)  関貞寺(曹洞宗)
004.jpg新、句碑縮小 DSC02053国道19号
 了義院にある「芭蕉の句碑」  国道19号線、 芳野三丁目バス亭から大曾根方面を見る

★芭蕉の句 「有りとある たとえにも似ず 三日の月」 句についてはこのブログから右のカテゴリー
「句碑・石碑を見つけよう!」をご覧ください。

城東の坂を歩こう! (No.8)

By , 2016年8月22日 12:51 PM

「芳野ヶ丘」 芳野2丁目
坊ヶ坂の東には名古屋市立工芸高校があり、広い敷地をもつこの学校の東西にも北へ下る坂があります。通称、名古屋市工芸と略して呼ばれていますが明治6年教員養成のため創立、明治32年愛知県第一師範学校として当地に移転しました。昭和26年には再び東区大幸町に移転、その後この跡地は名古屋市立工芸高校となり現在にいたっています。この一帯はかつて「芳野ヶ丘」と呼ばれ第一師範学校校歌にも「青春の芳野ヶ丘」として歌われています。現在でも北に下る坂の他、東西にも短い坂があり、名古屋市工芸も石垣に囲まれた小高い丘にあります。

芳野2丁目、市工芸東の坂
DSC02040市工芸校門
 名古屋市立工芸高校校門(南側)
DSC02033市工芸西 DSC02034市工芸東
 市工芸西の坂。右手前は市工芸校舎  市工芸の東の坂。左手の石垣は市工芸校庭
DSC02036東の坂、東西の坂2(北) DSC02038東区芳野町
 東西にもある坂、起伏にとんだ一帯 石垣と木々に囲まれた市工芸の敷地。北から南を見る

★参考 ひがし見聞録

 

 

城東の坂を歩こう! (No.7)

By , 2016年8月11日 9:44 AM

「坊ヶ坂」 芳野2丁目
片山神社をはさんで西が「尼ヶ坂」、東が「坊ヶ坂」です。坊が坂は道幅は狭く急坂が昔のまま残されている昼なお暗い坂道です。たまに通る人を見かける程度でこの急坂を自転車で下ることも危ないようです。片山神社の西の尼ヶ坂を「女坂」、東の坊ヶ坂を男坂とも呼んでいます。名前の由来は前回の尼ヶ坂と一対となり、近くに住んでいた権現小町という美人の村娘と高位の青年武士の悲恋物語がそれぞれの地名の由来と言われています。

坊ヶ坂
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DSC01906片山神社 DSC01907坊が坂
 片山神社鳥居下に坊ヶ坂の標識がある   誰も通らない坊ヶ坂、道の左は片山神社の森

★付録
尼ヶ坂公園は東区と北区に渡っていますが、この公園に地名の由来となる由緒書の石碑があります。又尼ヶ坂、坊ヶ坂には江戸時代、よく辻斬りが出たので供養のため近くの寺の和尚がお地蔵様を安置したのが現在の地蔵院の始まりといい、尼ヶ坂公園の西には地蔵院があります。芳野町の地名は寛文年間、竹腰家の家臣が境内に吉野の桜を植えていたのでこの町名が付けられたといいます。(文字は違っているし、おそらく桜の木もⅠ本だったかも)

DSC01911尼ケ坂公園 DSC01910尼ケ坂地名の由来
   尼ヶ坂公園にある石碑  悲恋物語の説明、ここは北区、東区の史跡散策路
DSC01912尼ケ坂階段 DSC01914地蔵院
 昔の面影を留める尼ケ坂、北から南へ上る       尼ケ坂公園西にある地蔵院、ここは北区となる

城東の坂を歩こう! (No.6)

By , 2016年7月31日 12:14 PM

「尼ケ坂」芳野2丁目
前回の首塚坂から金城学院中学をさらに東へ、長久寺の山門前を北へ行く南北の坂町です。この坂は片山神社の西で車道と歩道が分離され、北へ下ると名鉄瀬戸線の高架橋があり「尼ケ坂」駅もあります。車道は急勾配の坂ですが、歩道は尼ケ坂公園内となっており名鉄瀬戸線を使う近くにある金城生の通学路ともなっているようです。この車道は戦後新設されたものです。「尼ケ坂」はかつて樹木が生い茂る中を縫うような薄暗い道で坂上の名古屋台地へ向かう通路として「尼ケ坂近道」とも呼ばれていました。辻斬りも多く出没し、通行人が被害を受けることもたびたびあったといいます。現在も大木が茂るこの坂は東区とは思えない自然が残され、当時を偲ぶことができます。
この辺りは河岸段丘(川の中、下流域に流路に沿って発達する段階状の地形)と呼ばれる地層からなるもので矢田川の支流であったこの地が長い年月を経過しこのような高低差(坂道)を作り出したものです。長母寺のある矢田川は明和4年(1767)の大洪水で川の流れが大きく変わりましたが、それ以前の川の流れの変化によりこのような坂が作り出されたものです。今回のシリーズ「城東の坂を歩こう!」は徳川園に至るまで河岸段丘によって作り出された坂ということになります。
★参考資料 ひがし見聞録

尼ケ坂
尼ケ坂縮小
 左が歩道、右が片山神社の森
DSC01841尼ケ坂歩道 DSC01843尼ケ坂大木
樹木の茂った歩道、人通りは少ないが金城生の通学路にも  左にある大木が当時を物語っている

城東の坂を歩こう! (No.5)

By , 2016年7月16日 7:28 PM


「首塚坂」東区白壁3丁目と北区大杉町1丁目を分ける
先回のNo.4でご紹介した3本の坂と階段からさらに東へ1本歩いてみましょう。この坂も傾斜が大きく北方向へ下った地域とは12~17mの標高差があります。この坂道を下ると右側に首塚神社があったことから「首塚坂」と呼ばれてきました。複雑に入り組んだ区界によりこの一帯だけが首塚坂をはさんで西が東区白壁3丁目、東と北が北区大杉1丁目となっています。ですから首塚神社は北区となります。傾斜が大きいからでしょうか、舗装はコンクリートに六角形が刻み込まれ滑り止めが施された珍しい坂道です。自転車でこの坂を登るのは難しくほとんどの方は自転車を降りて歩いておられます。凍った路面となったら車でさえスリップしてしまいます。 何となく、怖いイメージの「首塚神社」は首塚霊神を主体とした大国主大神、末広大神、白竜大神など多数を祀る社ですが、尾張藩忠臣竹腰家の中屋敷であったことから竹腰家にまつわる伝説も残されているそうです。

首塚坂
DSC01813首塚
  首塚神社。この旗の奥が社となっている
DSC01812首塚上り DSC01831首塚坂、下り
  北から見た登り坂。この坂の傾斜はかなり大きい   南から見た下り坂。滑り止めの亀甲の刻みがある

★金城学院中学敷地北にある坂道
金城学院中学校の敷地の北を通る東西の道路もかなりきつい坂道で東から西へ下っています。この坂も自転車の方はほとんどの方が降りて歩いています。金城学院中学の北の敷地は北区となりますが東区との境界になります。名古屋城築城の折りこの辺りは随分起伏が大きかったことが想像されます。

DSC01835金城中学北 DSC01838石垣上の家
  金城学院中学の北の敷地前。東から西の下り坂   石垣の上に建つ家。この道は南北共に坂道となっている

 

城東の坂を歩こう! (NO.4)

By , 2016年7月2日 8:08 PM

「東二葉町の坂と階段」 白壁3丁目
このシリーズもいよいよ国道41号線を渡り、さらに東へ歩いてきました。ここには坂というよりも階段が設置され起伏の激しい一帯であったことが想像されます。坂は階段を含めて3本あります。清水口交差点をⅠ本北へ、そこから東へ200m程行ったところに「旧川上貞奴邸」がありました。この建物には電力王の福沢桃介と日本初の女優と言われた川上貞奴が大正9年から15年までを共に暮らしていました。その後幾多の変遷を経て平成17年橦木町に復元移築されました。これが現在の「文化のみち二葉館」です。高台であったのでこの建物の2階から北東には御嶽山も見渡せるほどでした。現在ここにはマンションが建設され、マンション西に隣接して北へ下る坂道と階段が整備されています。この辺りは江戸時代、尾張家重臣竹腰家の中屋敷があり、庭に老松があったことから東二葉町と呼ばれていました。大正期までは崖であったようで起伏の大きさが想像できる貴重な一帯ではないでしょうか。この階段の西と東にも坂があり、計3本の坂が残っています。

この道が坂と階段
DSC01801マンションから
ポインターのあるところが階段
その東西にも坂道がある
旧川上貞奴邸も「ザ・パークハウス白壁三丁目」
に変わった。この坂の奥が階段
DSC01782階段上から DSC01806真ん中の階段、北から
マンション西に隣接した坂を下ると下り階段。
崖の名残ですが階段の途中に民家の玄関がある
北から登りの階段を望む。43段あります
DSC01809いちばん西の坂 DSC01804一番東の坂
中央の坂と階段の西にある坂道。南から見ると下り マンションから東の坂道。道の奥に北区庄内川にあるタワーマンションが見渡せる

城東の坂を歩こう! (付録)

By , 2016年6月23日 3:57 PM

 「清水坂」白壁2丁目

No,3でご紹介した2本の清水坂の間にあった石垣と民家、大木が2013年夏取り壊され、現在はマンションになっています。「く」の字に折れ曲がった坂は残されましたが崖もなくなり、この坂が造られた当時を偲ぶものがなくなってしまいました。この石垣、崖が崩されていく様子を取材した写真がありますので、付録として掲載します。

DSC02198清水坂石垣。大木  2013/7/26   折れ曲がった坂に石垣と大木がある DSC02200石垣南から  7/26  左の写真と同じだが南からの下り坂
DSC02205石垣の始まり。大木 DSC02201国道41号の清水坂
  7/26  南からの下り坂、大木は道路にはみだしている    7/26 国道41号線の清水坂を南から。ここにも石垣
DSC02230マンションから一部建物がある
DSC02235崩された崖
   7/27 友人のマンションから南を見る、左右に清水坂    7/30 崩されていく石垣と崖、北から見る
DSC02370石垣崩れる DSC023788月26日縮小
 8/18  半分ほど崩された石垣  8/26 友人のマンションから、崖はだんだんなくなっている
  ★写真の上でクリックすると大きくなります

    ★約1か月半見守ってきた石垣と崖、大木はなくなり平地となってしまいました。この敷地にはマンションが建設されましたが、きっとこの歴史を知らない方が今はお住みなのでしょうね。

DSC04527更地1 DSC04528更地2
 9/9  昔を留める物は何もない、平地が登場。  9/9  「く」の字にになった坂は残る

城東の坂を歩こう! (No.3)

By , 2016年6月16日 4:41 PM

「清水坂」 白壁2丁目
城東を東へNO.1,NO.2と歩いてきました。次はその東にある「清水坂」となります。この坂は稲置街道(犬山街道)の起点で志水口と呼ばれ、かつては石畳の坂でした。明治、大正初期まで定時乗合馬車の発着所もありました。平成の初めにはこの石畳も消滅、アスファルトに変わってしまいました。この道は小牧に通じる重要な道で要害のためもあって北から坂を登るという当時としては険しい道でした。坂の東側の台地には水の湧き出る泉があってこれが「清水」の地名といわれ「志水」とも書かれていました。この街道は本街道又は上街道(うえかいどう)ともいわれ清水口から小牧、中山道に通じていました。地元で小牧街道と呼んでいたのは、この街道の小牧までで、尾張藩附け家老成瀬家の居城犬山に通じる重要な街道でもあったからです。この坂の東側は石垣の上に大木と民家がありましたが、平成13年夏からこの石垣が崩され、現在はマンションとなってしまいました。時代の流れとはいえ、かつての面影が無くなり残念です。平成13年この石垣が崩され整地されていく様子を次回のホームページでお届けしますので、次回も是非お立ち寄りくださいね。
この崖の東側の道は国道41号線、上部は都市高速道路となっていますが、ここにも坂があり、西にある清水坂に沿って開かれています。清水口の交差点から北へ下りここも清水坂となります。
写真の上でクリックするとサイズが大きくなります。
★参考資料 東区の歴史

DSC01779清水坂登り
清水坂、この辺り
 北からは登り坂となる。結構険しい道であった
DSC01794清水坂下り、マンション DSC02200石垣南から
南から北を見ると下り坂となる。右側は新築マンション。現在も右写真と同じ道が残されている。防衛のための仕組み   マンションになる前、石垣の上に大木と民家があった。道は東へ折れ曲がり「く」の字型となり上からは見通せない
 DSC0179041号下り  DSC0179241号登り自転車
  国道41号線、清水口から北は下り坂   国道41号線の歩道。北からは登坂

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