Category: 学校跡碑を見つけよう!

学校跡碑を見つけよう! (No.5)

By , 2015年7月31日 1:35 PM

「愛知県立第一中学校跡」の石碑 白壁二丁目

 明和高校校門すぐ南に「明和高校前街園」があります。名鉄瀬戸電「東大手駅」の東にある小さな公園です。ここに「愛知県立第一中学校跡」と刻まれた石碑があります。昭和52年10月16日、愛知一中創立100年祭に建立されました。愛知一中は現在の明和高校のあたり一帯に明治43年から昭和13年までこの地にありました。(当時は西二葉町)その後新出来町移転、昭和23年の学制改革により第三高女と合併、現在の旭ヶ丘高等学校となっています。
石碑の背面には 「自明治43年 至昭和13年 之間此の地に在り 愛知一中創立百年祭 実行委員会跡碑を建つ」と刻まれています。
 DSC00863明和高校
DSC00864愛知県立凱一  DSC00859背面縮小

 

 

学校跡碑を見つけよう! (No.4)

By , 2015年6月29日 10:07 PM

「県立明和高等学校内・明倫堂石碑」 白壁二丁目

 DSC00735明和高校校門 現、県立明和高等学校内に「明倫堂石碑」があります。明倫堂はNo.9で紹介した旧愛知県立明倫中学校の元となった尾張徳川家が設立した藩校でした。この地には藩政時代は成瀬家の中屋敷、明治には県農業試験場がありました。
昭和23年の学制改革により県立明倫中学校と県立第一高等女学校
 が統合し、現在地に「愛知県立明和高等学校」が設立されました。この石碑は昭和58年(1983)5月1日明和高校先蹝開学200年記念として建立され、明倫堂由来が刻まれています。
 DSC00733明倫堂遠景縮小 DSC01399明倫堂500

学校跡碑を見つけよう! (No.3)

By , 2015年6月18日 5:45 PM

「旧愛知県立明倫中学校」の石碑 徳川一丁目
徳川一丁目、と言っても町名変更により採用されたこの町名は道を隔てた南は代官町になります。現在県立愛知商業高等学校の南、この徳川一丁目にある東橦木公園内に「愛知県立明倫中学校跡石碑」があります。明治22年(1889)この地に武揚学校を建設、明治33年(1899)には尾張藩校「明倫堂」を継承し、「私立明倫中学校」が設立されました。
大正8年(1919)尾張19代徳川義親は中学校を愛知県に移管し、「愛知県立明倫中学校」となり、昭和23年(1948)の学制改革のため、「愛知県立明倫高等学校」と改称、さらに県立第一高女と合併し、現在の「愛知県立明和高等学校」となり、旧西二葉町(現白壁に丁目)に移転しました。その後瑞穂区にあった「愛知県立商業高等学校」はここへ移転してきました。
県立第一高女については、前ブログで紹介していますので併せてご覧下さい。

DSC00728明倫堂碑全体  DSC00729東撞木公園縮小
  県立愛商高校の南、噴水の奥に碑はある。    東橦木公園の石碑もあります。
 DSC00731学校碑縮小  DSC01398学校碑拡大部分
 平成11年10月、県立明倫中学校同窓生により建立。    沿革が刻まれた石碑。

★参考資料「東見聞録」、インターネット明治時代の名古屋「明倫中学校」
写真の上でクリックすると大きくなって見られます。

学校跡碑を見つけよう! (No.2)

By , 2015年6月6日 8:21 PM

「旧愛知県立第一高女」の石碑 東桜一丁目
明治36年当時の愛知県庁があった武平町通りに「愛知県立高等女学校」が開校されました。明治、大正、昭和と県下の女子中等教育の中心的役割を果たした学校で「県一」の才女と今も語り継がれています。昭和23年学制改革により、「愛知県立明倫高等学校(男子校)」と合併し「愛知県立明和高等学校」となりました。
愛知県庁は明治10年(1877)から33年(1900)までこの地にあり、その後「愛知県立高等女学校」が開校され、戦後の都市計画により、現在の愛知芸術文化センター、NHK名古屋放送センターと変遷をたどっています。このNHKの東側と、東桜小学校の間にある一角は「栄公園」となり緑多い小道となっています。昭和51年ここに「旧愛知県立第一高女」の石碑が建立されました。

 DSC00701NHK小道
栄公園・この辺り
 DSC00699碑文  DSC00703ここにありき縮小

昭和51年4月18日建立。写真の上でクリックすると拡大され文字が読めます。

学校跡碑を見つけよう! (No.1)

By , 2015年5月17日 10:15 PM

句碑、歌碑は東区にはもう2,3か所程あるのですが境内に自由に立ち入ることが出来ない寺とか、石碑の文字が読み取れないものがあり今回はアップを断念しました。次は石碑の中で学校碑を取り上げ東区を歩きます。

「旧市立第三高女」の石碑 橦木町二丁目
この辺りは現在、山吹小学校の東に隣接し山吹谷公園として親しまれています。江戸末期の天保年間に作成された「尾張名所図会」には往時は山吹谷と云われ春の終わりの山吹の花が咲くころ武士、町人家族などが酒、肴を持ち寄り山吹の花を愛で遊んだ名所として描かれています。

DSC00682山吹谷公園全景縮小
山吹谷公園

 

DSC00681第三高女石碑2個縮小 山吹小学校に隣接した山吹谷公園には「旧市立三高女」の石碑があります。昭和20年1月23日の空襲で生徒が避難した防空壕に爆弾が直撃し、生徒42名が亡くなりました。その跡地に昭和56年1月23日鎮魂碑が建立されました。
左にあるのがその石碑です。右にあるのは昭和12年に建立された「校訓」で石碑には「訓校」と当時の書き方で刻まれています。
その後昭和23年の学制改革により、第三高女は愛知一中と統合され現在の旭丘高校となっています。
 CIMG9470第三高女石碑 縮小  DSC00680爆死石碑背面縮小
 碑表
名古屋市立第三高等女学校ここにありき
 碑陰
大正12年開校
昭和20年1月23日 学徒42名爆死
昭和56年1月23日 建之        三綾会

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