Category: 小公園に残る町名

小公園に残る旧町名を探して (No.13)

By , 2018年5月1日 10:55 AM

東橦木公園 徳川1丁目
橦木町という町名は江戸期以来に命名された町名で外堀通り線の1本北を東西に走る町です。町の西端が上竪杉町(かみたてすぎのちょう)に行き当ってTの字の形になっていました。これが金を打つ撞木に似ていることに由来しています。明治末には小路も出来、その道路も拡張され現在では撞木の形はなく町名のみがみ残っています。「しゅもく」の文字は本来「扌遍(てへん)」であったのですが明治になりいつの間にか「木遍(きへん)」になり現在に至っています。東橦木公園は橦木町の東、現在の国道19号線を超え、平田町(へいでんちょう)の交差点を東へ県立愛知商業高校の南に隣接し、現在の町名は徳川1丁目となり、この公園の名がしっくりしません。
このシリーズも今日で最終回となり、新しい話題を探して又東区を歩きます。

IMG_1765東橦木公園
35東橦木公園
  ここは私立明倫中学があった跡地です  徳川1丁目という町名がそぐわない

小公園に残る旧町名を探して (No.12)

By , 2018年4月24日 5:34 PM

主税町東公園 相生町4丁目 
主税町(ちからまち)は東は相生町(あいおいちょう)、西は上竪杉町(かみたてすぎのちょう)、北は白壁、南は橦木町に接する東西に走る町です。「主税町東公園」は主税町の東に位置し、町名は相生町ですが何故かこの名が付けられています。実際にはこの公園前の道は主税町と橦木町の間にもう1本東西に走る道で昭和55年の住居表示に関する法律により一部が相生町となりました。相生町は本来善光寺街道と呼ばれた長野善光寺に通じる旧街道の一部で大曾根に向かう南北の道ですがこの公園の地名は相生町です。東主税町公園ではなく「主税町東公園」と命名されましたが今回のシリーズで白壁町に続く公園として取り上げてみました。

主税町東公園
主税町東公園

小公園に残る旧町名を探して(No.11)

By , 2018年4月16日 1:59 PM

東白壁公園 白壁5丁目
早かった今年の桜の開花にあわせて東区桜情報をお届けするため「小公園に残る旧町名」シリーズを残してしまいました。後は白壁町、主税町、橦木町の東に位置する公園のみとなりました。最初に「東白壁公園」ですが東白壁町は明治期の成立で同11年には白壁町の東にあることから東白壁町となりました。公園の西は金城学院高校、東は東白壁小学校があり、文教地区にある閑静な公園です。昭和55年の住居表示に関する法律により西から順に白壁1丁目から5丁目が誕生し東白壁町は消滅、公園にその名が残されました。

IMG_1763東白壁公園
白壁公園

★参考資料 ひがし見聞録

小公園に残る旧町名を探して(No.10)

By , 2018年3月9日 9:00 PM

長久寺公園 白壁三丁目
前回の西二葉公園の東、国道41号線(高架は名古屋高速)を渡り、その東の東二葉町と南は現在は消滅した長塀町に位置する「長久寺公園」は金城学院中学の南門すぐ東です。金城中学の敷地も江戸期には長久寺の一部であったと思われます。ここは長久寺の門前であったことから長久寺門前町と呼ばれていました。明治4年(1871)には長久寺町となりましたが、今ではその名も消滅し白壁三丁目となりました。
長久寺は真言宗の寺で清須越しにより、名古屋城の鬼門鎮守の寺として現在地に移されました。表門は清須から移築したものが現在に至っています。名古屋城の東の高台にあり、「長久寺八景」と云われた当寺の八つの景勝地も今は有りません。長久寺、長久寺公園としてのみその名を留めています。

 
長久寺南参道
IMG_1624参道縮小
   この参道の突き当りが長久寺、山門は東にある
IMG_1620長久寺公園石造物 IMG_1622公園全景
 石には「長久寺公園」と刻まれている  長久寺の南参道の南にある

小公園に残る旧町名を探して (No.9)

By , 2018年2月25日 1:45 PM

西二葉公園  白壁2丁目
今回は松山公園から随分離れて国道41号線(空港線)と桜通りの交差点高岳を北へ東片端交差点、清水口交差点まで約1kmと随分歩き、県立明和高校の近くかつての西二葉町まできました。西二葉町は明治期の成立で江戸期には尾張藩御付家老成瀬隼人の中屋敷があったところで屋敷跡の庭に古い老松があったことから明治の初めに「西二葉町」と名がつけられました。現在の国道41号線のすぐ西の南北の道は、かつての木曽街道で小牧に通じる重要な道で、成瀬隼人の居城犬山にも通じる重要な道でした。この街道をはさんで西二葉町、その東を東二葉町、清水町が入り組んで分けられていました。昭和39年から始まった住居表示に関する法律により西二葉町、東二葉町はなくなり白壁2丁目となりました。この公園に「西二葉公園」としてのみ名が残りました。
★参考資料 ひがし見聞録、東区の歴史

西二葉公園
IMG_1251地図
  西二葉公園  案内地図、写真の上でクリックして下さい
IMG_1165補正 IMG_1168西二葉公園
 西二葉公園  日当たりのよい場所にある

小公園に残る旧町名を探して (No.8)

By , 2018年2月12日 2:57 PM

松山公園 東桜二丁目
No.7の安房公園から今度は西へ、桜通り小川町交差点を渡り国道41号線との中間まで歩いてきました。
慶長年間の名古屋開府による清須越が行われた江戸期にはこの一帯に沢山の寺を宗派ごとに集めました。これは南を走る駿河街道(現国道153号線)の防御地帯とする戦略的構想から生まれています。この一帯は曹洞宗の寺院が多くあり、江戸期には「禅寺町(ぜんてらまち)」と称されていました。明治期になると「松山町」と称されその地名の由来は定かではなく、松は縁起の良い木とされるので町名としたと云われています。昭和39年以降実施された「住居表示に関する法律」に基づき町の整備が行われ新たに東桜二丁目となり、現在に至っています。広大な寺の境内の一部に道が通され宅地も出来、三角形の空き地が「松山公園」となりました。公園の西には浄土宗の「へちま薬師」、東には曹洞宗の「安斎院」が昔を偲ばせてくれます。

松山公園
IMG_1159松山公園 IMG_1160石碑
 この公園の左(西)にへちま薬師があります   松山公園と刻まれていますが公園の周囲にはネット

★参考資料 ひがし見聞録、東区の歴史

 

小公園に残る旧町名を探して (No.7)

By , 2018年1月31日 3:31 PM

安房(あわ)公園 葵二丁目
No.6の城番公園は筒井町商店街の東の端にありましたが、ここから少し西に戻り南北の車道を南へ、広い桜通りを渡り路地を入った所に「安房(あわ)公園」を見つけました。服地の大塚屋がすぐ近くです。フリガナが無ければほとんどの人が「あぼうこうえん」と読んでしまうでしょう。しかしながらこの公園名が刻まれた石の横に町名の由来が書かれ納得できるようです。読んでみると「この地域には安房小路(あわこうじ)と下方小路(しもかたこうじ)の二つの小路があり、安房小路は江戸期には「安房様屋敷(あわさまやしき)」と呼ばれていた。この二つを合わせて明治13年に安房町(あわちょう)とされました。」と説明がしてあります。
近所の方に聞くとこの公園は昨年(平成29年)12月に完成した新しい公園であることが分かりました。それまでは空き地であったそうで、最近の区画整理により、道も広くなり新しい住宅、マンションが建設され若い世代が移り住む町に生まれ変わったようです。取材中も寒さにもかかわらず子供たちの楽しそうな声が響き、説明書きに何の興味もない新住民に親しまれていく公園となるのでしょう。

安房公園

IMG_1136安房公園 IMG_1137安房町由来
この安房公園の北には、マンション。その北は桜通り 由来には尾張三代藩主徳川綱誠の19男松平通温付の家中屋敷とも、道温が幽居を命じられた時の屋敷があったとも?

★参考資料 ひがしネットHP,ひがし見聞録、東区の歴史

小公園に残る旧町名を探して (No.6)

By , 2018年1月19日 8:32 PM

城番(じょうばん)公園 筒井3丁目
手代往還公園からさらに東、そして北に歩いてみます。ここに「城番公園」を見つけましたが、何とも古めかしい名を留めています。すぐ北にある情妙寺(日蓮宗)の南門前町となっていた一帯で江戸時代城代組同心、御深井丸(おふけまる)番頭などの屋敷地で城番町と呼ばれていました。城番とは戦国時代から江戸時代にかけて城代(注)のもとにあって城の門櫓を警備、城の守衛にあたった下級武士の役職です。簡単に言えば城の番ですね。明治11年(1878)北城番小路、南城番小路、養老小路を合わせて城番町と定められましたが、昭和50年頃からの区画整理で現在は筒井3丁目となり、この公園にのみ名が残されました。
(注)城代とは大名が参勤交代などで不在の折、国元の居城で留守番を務める家臣のうち、家老職の者を城代家老と呼んだ。

城番公園

IMG_1120城番公園 IMG_1116城番町自治会
  公園の北、筒井通から南を見た城番公園  公園の南から北を見ると「城番町自治会」の名が

★参考資料 ひがし見聞録、東区の歴史、ウィキペディア

小公園に残る旧町名を探して (No.5)

By , 2018年1月8日 8:35 PM

手代往還(てだいおうかん)公園 筒井二丁目
★今年初めての投稿となり、昨年に続きこのシリーズとなります。引き続きご覧ください。
この公園は北に旧手代町(てだいまち)、南に旧往還町(おうかんちょう)として平行する東西を走る二つの町名から名が付けられた公園です。西は水筒先町、東は車道に接する町でした。二つの町は江戸期以来のもので手代町は作業型、水道方などの手代衆屋敷の屋敷があったことに由来、往還町は往還手代衆の屋敷があったことに由来しています。往還手代衆とは大道奉行に属するもので広い道の管理などを担当した役人ということです。名古屋城下において双方とも水道工事とか下仕事的な任務を担った下級武士の居住地であったと思われます。
戦後しばらくして国の事業計画「町を造りなおす計画」として新しい道が造成され昭和56年、この一帯は筒井2丁目となり手代町、往還町は消滅しました。北を走る旧手代町は広い道路となり、住宅もすっかり建て替えられ新しい道と町が誕生しました。そこに余った土地?に「手代往還公園」が造成され子供たちの遊び場が出来ました。この公園は北の手代町と南の往還町に面する南北に長い公園で旧町名が残されたわけです。しかしながら道行く住民らしき何人かに問いかけても公園の場所すら知らないとか、ここがかつて旧手代町、旧往還町であったことも知らないようでいかに時代が経ったのかを痛感します。

手代往還公園

グーグルマップには緑で表示された公園が記されていません。万福寺の斜め向えにあります。

image1手代往還公園1 image1手代往還公園2縮小
  手代町に沿ってある北の入口   往還町に沿ってある南の入口

★参考資料  ひがし見聞録、東ネット、インターネット、町の識者の話

小公園に残る旧町名を探して (No.4)

By , 2017年12月26日 9:12 PM

竪代官公園 代官町
さらに東へ歩いてみましょう。200mぐらい南東に「竪代官公園」があります。舎人公園とかこの公園は四角形ではなくひし形とか三角形の敷地となっています。おそらく戦後の区画整理により道路の造成が優先して残った敷地が公園となったのでしょう。代官町という名は江戸期にこの地方が開発された頃、ほとんどが武家屋敷で大代官「太田久左衛門」という人が初めて家を建てたことから名が付きました。代官という職は幕府、諸藩の直轄地の行政や治安をつかさどる役人の称で「お代官様」と言えば馴染みのある言葉です。
代官町の竪、横の区別は昔からあり竪代官町は御下屋敷(おしたやしき)とか御人参畑とも言われていたそうです。その一帯がかつて尾張二代藩主徳川光友の下屋敷があり、薬用人参を育てていたことに由来しています。竪、横の称は明治9年東西の町を竪代官町、南北の町を横町(よこちょう)といったことから萱屋町(かやまち)の東の竪の道を横代官町と呼びました。ややこしいですね。この一帯は昭和55、56年の住居表示変更により竪代官町、横代官町の名はなくなり萱屋町、水筒先(すいとうさき)町、平田町、布池(ぬのいけ)町など七つの町名がすべて代官町となりました。
今年1年間このブログとお付き合い頂き有難うございました。来年もこのシリーズは続きます。
引き続きご覧ください。

竪代官公園

DSC03361竪代官町公園 DSC03362竪代官町公園全景
 竪代町公園 竪代官町は国道19号線をはさんで東西の長い町名であった

★参考資料 HP東ネット・東区の歴史・ひがし見聞録

Panorama Theme by Themocracy