Category: 東区寺巡り

東区寺巡り(No.15)

By , 2019年5月1日 12:12 PM

定覚山 善光寺 筒井1丁目
平成から令和となるこの日、しばらく休んでいた「東区を歩こう!」は前回自然寺から少し西へ筒井小学校北にある善光寺まで歩きました。場所はNo,14自然院の地図をクリックすると大きくなり、筒井小学校の北にあります。

DSC05272.jpg縮小 DSC05273.jpg善光寺縮小

この寺は「善光寺如来縁起」によると1400年前の推古天皇の時代、信濃の国(現飯田市坐光寺)の住人であった本田善光(よしみつ)が都に上り、難波の水中に出現した阿弥陀如来を拾い上げこれを背負って帰国の途中尾張黒田の宿に一泊、夜半に如来は善光の夢枕に立ち善光の辛苦を哀れみ善光を背負い一夜にして信濃の国へ飛び立ったと云います。善光は帰国後、仏を刻し黒田の地に一寺を建立、定覚山善光寺(黒田の善光寺)と名付けたと故事にあります。

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 黒田にある 善光寺如来の石碑   一宮市教育委員会による史跡 善光寺跡

この寺は室町時代廃滅、愛知県那古野村(現名古屋市西区幅下あたり)に移転、清須越により東区鍋屋町裏(現泉二丁目)に移されました。その後昭和20年の空襲で全てを無くし、昭和28年に復興のため筒井町の現在地に移りました。この寺は天台宗の寺です。
戦前の鍋屋町裏は国道41号線と旧鍋屋町が交差する辺りで藩政時代の城下図によると現高岳町から清水口に至る南北の道は善光寺筋と呼ばれていました。

その後故郷の信州麻績(おみ)の里(現飯田市座光寺)にも寺を建立し、元善光寺となりました。642年皇極天皇の時御託宜により現在の長野市に遷座、長野の善光寺となりました。善光寺の名は本田善光(よしみつ)の名を取ったもので、飯田の元善光寺、長野の善光寺と両方合わせて参詣するよう「善光寺の片参り」などと呼ばれています。
★参考資料 尾張名所図会(黒田の里) 尾張名陽図会(善光寺如来縁起) 善光寺縁起

東区寺巡り(No.14)

By , 2019年4月13日 1:34 PM

 宝池山自然院(じねんいん)筒井4丁目
前回の情妙寺を少し西へ、筒井町通に沿って自然院があります。承応(じょうおう)元年(1652)布が池(現在の布池辺り)に相応寺(尾張初代藩主義直生母菩提寺)の開山であった眼誉呑屋(がんよどんおく)上人により相応寺の末寺として開山されたものです。布が池の辺りあった持念院という古寺を移して建立した浄土宗の寺で「布池山持念院」と名付けられました。この寺の本尊は眼誉呑屋上人が京都黒谷光明寺から持ち帰ったことから「黒谷門前」と呼ばれていました。
元禄8年(1695)には尾張三代藩主綱誠が布が池のお下屋敷を広げるにあたって現在の筒井町へ移転、山号を宝池山に改めました。当時の広さは3300坪もあったといいます。現在の敷地は729坪、境内には筒井幼稚園も創設され、山門の右手横には地蔵菩薩、周りには可愛い6体のお地蔵さんも見られます。右手の石碑には「花道千秋流家元」その下には小さく黒谷(くろたに)自然院と刻まれています。ここは嘉永5年(1852)花道家元「千秋流」の本家であり、自然院11代住職が宗家であったことから継承されています。

IMG_3981.jpg縮小 地図切り取り   地図の上でクリックして下さい。大きくなります。
赤矢印が自然院
石柱には 花道千秋庵家元 右下には黒谷(くろたに)
 IMG_3985.jpg縮小  山門を入ると左手に幼稚園、奥に本堂があります。IMG_3984.jpg縮小
  座っている可愛いお地蔵様

★参考資料 名古屋市史・ひがし見聞録・自然院由緒書・尾張名陽図会

東区寺巡り(No.13)

By , 2019年3月23日 4:45 PM

源頂山 情妙寺 筒井4丁目39
覚音寺の次は南へ筒井町まで歩き、この通りを東へ100m程行くと情妙寺があります。情妙寺の沿革を記す前に初代茶屋四郎次郎清延について述べてみます。清延は京都の豪商で代々四郎次郎を名乗ります。本能寺の変(1582)で家康の伊賀越えに尽力(情報提供の隠密)家康の命を救ったことから江戸幕府が誕生した後、徳川家の呉服御用を一手に引きうけました。文禄元年(1592)には豊臣秀吉から朱印船貿易の特権を与えられ南蛮貿易に従事しました。清延の三男、新四郎長吉(ながよし)が慶長19年(1614)尾張藩主義直に付けられ名古屋に来たのが尾州茶屋家の始まりです。茶屋家は徳川家の庇護を受けたことで徳川家呉服調達、両替商と特権商人でした。

IMG_393寺標 IMG_3933標識

その新四郎長吉が慶安2年(1649)家康の位牌所として建立したのが日蓮宗の「情妙寺」です。この寺に茶屋家から寄進された「茶屋新六交趾渡航図巻(こうちとこうずかん)は県指定文化財で、家康の許可を受け鎖国までの間ご朱印船貿易を営んできた茶屋家の船がベトナムに渡航した様子が描かれています。新六は尾州茶屋家二代目(新四郎良延のこと)交趾とはベトナムのことです。ベトナムホイアン旧市街には中世日本人の遺跡が残され、「貿易陶磁博物館」では日本、中国、ベトナムの陶磁器が展示されています。その中で茶屋家がベトナムに渡航した「情妙寺」と同じ渡航図巻が展示されています。清延の本家は四郎次郎を名のった京都の豪商、三男は新四郎を名のった尾州茶屋家、四男は紀州茶屋家で茶屋家御三家と云われていました。現在では尾州茶屋家のみが名を変え存続しています。

DSC01013縮小  貿易陶磁器博物館
 情妙寺で見せて頂いた渡航図の一部、茶屋家二代目
新六が館の右端に見られる
    ベトナムホイアン貿易陶磁博物館にあった同じ渡航図

★参考資料 ひがし見聞録 名古屋市史 ブルタニカ国際大百科辞典 名古屋市教育委員会標札 ホイアン旧市街観光案内パンフレット

東区寺巡り(No.12)

By , 2019年3月7日 9:04 PM

金龍山覺音寺(こんりゅうさんかくおんじ)新出来1丁目5番
覺音寺はNo.11で紹介した徳源寺の東隣の位置にあります。沿革としては室町時代の天文10年(1541)に現赤塚周辺に建立されたのが起源です。延寶(えんぽう)5年(1677)には寺地を現一宮市北方曽根、その後古(ふる)出来町、そして寶永2年(1705)に当地と四遷しています。正徳年間(1711~1716)尾張徳川家梅昌院(尾張三代将軍綱誠(つなのぶ)の側室)の帰崇を受け寺号を覺音寺と改めました。梅昌院は本願寺と寺縁深く現本願寺名古屋別院の存立と興隆に大きな庇護となった方です。文化6年(1809)には真宗大谷派に転派しました。鐘楼は明治14年の再建、明治45年には本堂を10年の歳月をかけ総欅造りで再建しました。しかし昭和20年の空襲で名古屋市全土が焦土と化しましたが、覺音寺は西隣にある徳源寺の釈迦堂とともに奇跡的に焼失を免れ、今日もその姿をとどめています。なお梵鐘は戦時中供出したといいます。昭和60年の名古屋市区画整理事業により西へ移築、山門もその折再建したということです。
なお、今親鸞と言われた「清沢満之(まんし)」の家は覺音寺に近く明治11年覺音寺の衆徒として得度した修行寺です。満之は東京帝国大学哲学科と大学院を卒業、明治21年碧南市西方寺の娘やすと結婚し清沢姓なりました。満之は明治の宗教界にあって「信仰の仏教」を樹立し宗門の改革に務めました。

IMG_3695本堂縮小 IMG_3690明るさ、縮小
  明治45年再建の総欅づくりの本堂   明治14年再建の鐘楼、昭和60年西へ移築

★参考資料 東区の歴史、 覺音寺由緒書、ひがし見聞録

東区寺巡り(No.11)

By , 2019年2月17日 8:43 PM

蓬莱山徳源寺 新出来一丁目
「東区寺巡り」を再開してさらに北へ歩いてみます。基幹バスが走る山口町と徳川園新出来バス停の中央辺りです。沿革は文禄2年(1593)織田信長の次男信雄(のぶかつ)が熱田に「清涼山宝仙寺」を建立したのが起源です。その後幾多の変遷を経て延亭元年(1744)現在地に移転しました。臨済宗妙心寺派の寺となっています。境内は戦後の都市計画で狭くなりましたが、およそ5200坪の境内に、山門、勅使門、本堂、仏殿、開山堂、禅堂、鐘楼などが建ち並んでいます。
1.禅堂(左下の写真)は非公開ですが文久2年(1862)に建立、徳源寺では最も古い建物で現在でも雲水(修行僧)修行の場となっています。平成10年に解体修理されました。
2.山門(右下の写真)は明治45年建立の高麗門(城郭門)で本柱の上に切妻屋根がのり、本柱には控え柱を備え本柱と控え柱の間に切妻屋根が掛けられています。

IMG_3425禅堂 IMG_3413山門縮小

3.  仏殿(釈迦堂)は明治42年に建立安置されましたが、その折には露座で銅製の釈迦涅槃像が北を枕に西を向いて安置されていました。明治45年には仏殿が出来後部には五百羅漢が祀られました。日本では珍しい仏殿で涅槃像は5mを超える大きさです。
4.本堂は昭和28年竣工、鉄筋コンクリート造り約二百畳の広さがあります。庫裏との間には「瑞心の庭」と称し、石庭が造られています。

IMG_3417涅槃像切り抜き縮小 IMG_3420本堂と庭
仏殿の涅槃像の後ろには五百羅漢が祀られています  本堂と石庭

5.開山堂はこのブログの 写真にはありませんが禅堂の北にあり残念ながら非公開です。 岐阜県の豪農の寄進によるもので昭和10年に完成、左に寄進者の位牌、天井には河合玉堂作「雲竜図」が描かれ見事です。
但しこれはレブリカで本物は県美術館に保管されています。

境内には桐の大木があり、4月初めには見事に咲き東区民に親しまれています。蛇足ですが、この徳源寺の北向かえにはわらび餅で有名な和菓子司「芳光」があり和菓子党の良く知る所です。
★参考資料 ひがし見聞録、 徳源寺由緒書

東区寺巡り(No.10)

By , 2018年12月25日 8:44 PM

徳興山建中寺 筒井一丁目
今年最後の「東区を歩こう!」は少し足を延ばして東へ国道19号線を渡り建中寺の紹介です。この寺は慶安4年(1651)尾張二代藩主徳川光友が父である藩祖義直の菩提を弔うため創建したもので尾張藩の菩提寺、浄土宗の寺です。今から実に367年前に創建されました。江戸時代には4万8千坪、周囲に石垣と溝を巡らした厳重な構えで総門、三門、本堂、経蔵、歴代藩主の御霊屋が建立されました。しかし、天明5年の大火(1785)で総門、三門その他一部を残して焼失しましたがその2年後の天明7年には本堂、経蔵などが再建され、現在に至っています。現在の敷地は約千坪、建中寺の三門南側の道路から総門までは戦後の復興で名古屋市に買収され、建中寺公園として市民に親しまれています。名古屋市立あずま中学、東海学園中高等学校も江戸時代は建中寺の敷地でした。
本堂は間口27m、奥行25m、建坪210坪に及び、木造の本堂としては名古屋市最大級で「名古屋市指定文化財」に指定されています。

今年も後わずか、建中寺では大晦日に除夜の鐘がつかれ、一般参拝者が鐘をつくことが事が出来ます。今年も12月1日から100円で配布される参加券はすでに完売となったようです。大晦日23時30分から始まり観覧することが出来ます。今年は是非建中寺の除夜の鐘を聞きながら新年を迎えてはいかがでしょう。この一年ブログを愛読いただき有難うございました。来年も「東区寺めぐり」は続きます。又ご一緒に歩きましょう。

IMG_3067総門 IMG_3070三門
IMG_3075本堂 IMG_3076山門葵
上段は建中寺公園南の総門・ 下段は本堂 上段は本堂前の三門・ 下段は葵の家紋のある山門扉

★参考資料 名古屋市史寺社編 ひがし見聞録

東区寺巡り(No.9)

By , 2018年12月13日 6:36 PM

東岳山長久寺 白壁3丁目
東区の紅葉もそろそろ見納めとなります。本題の東区寺巡りに戻り、今回は禅隆寺を北へ(早咲き桜みち)基幹バス通り(左に金城学院高校)を渡り200m程の「長久寺」の紹介です。昭和50年代の町名変更により、長久寺町から白壁町になりました。この寺は慶長15年(1610)の清須越により現在地に移され、名古屋城の鬼門鎮護の寺とされました。真言宗智山派、本尊は不動明王です。表門は豪華な一間薬医門で清須から移したものです。名古屋城の東にあるこの地は北と東に坂や崖があり、特に北を見ると今でもその名残はありますが当時は見晴らしの良い高台となっていました。そのため尾張名所図会(おわりめいしょずえ)には「長久寺八景」と称した景勝の地として描かれています。
境内には将棋駒形の供養塔「庚申塔(こうしんとう)」が祀られ、江戸時代盛んになった庚申信仰による三匹猿「見ざる」「言わざる」「聞かざる」が石碑に浮彫されています。江戸初期の寛文8年(1688)の刻印があり、昭和53年には「市指定文化財」となりました。毎年8月の夜には庚申まつりが行われています。

IMG_3047長久寺正門 DSC01123庚申塔縮小
 清須から移された薬医門       うずくまった鬼の上に本尊の青面金剛の像が
三匹の猿を従えている。

★参考資料 ひがし見聞録 長久寺縁起

東区寺巡り (No.8)、

By , 2018年11月25日 8:39 PM

宗興山禅隆寺 飯田町36
前回の圓勝寺を50m程西へ行くと禅隆寺があります。市バス「飯田町」のバス停前です。この寺は元和9年(1623)尾張初代藩主義直より寺地を拝領して創建された臨済宗妙心寺派、京都妙心寺の末寺となっています。本尊の釈迦如来は義直寄進のものです。八代藩主宗勝、九代藩主宗睦(むねちか)の生母の菩提所であり、この寺も尾張徳川家とはゆかりのある寺となっています。戦災で本堂は焼失しましたが、清須から移築した山門と山門を入り左手にある観音堂は創建当時のものです。現在の本堂は昭和44年に再建されました。
山門を入るとモミジが沢山植えられ名古屋市内にあって紅葉の名所と言われる程見事に色づきます。今年は夏の暑さと急な冷え込みが少なく今日25日現在、日の当たる上部は色づいていますが、日陰とか地面に近い所はまだ緑がみられます。見頃は来週あたりかと思いますが、そんな頃是非お出かけください。

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 創建当時の山門 山門右手に色づいた紅葉  門を入り左手観音堂、紅葉が見られる

★参考資料 東区の歴史 ひがし見聞録

東区寺巡り(No.7)

By , 2018年11月15日 4:19 PM

寶林山 圓勝寺 飯田町49
しばらく秋のイベントを追って歩きましたが、本題の「東区寺巡り」に戻って歩きます。
今回は養念寺を北へ外堀通り線を渡り突き当たった位置にある「圓勝寺」です。もとは甲斐府中にあり、天台宗でした。武田氏滅亡後有力武士6氏が清須に移りそのうちの一人が仏門に入り「善了坊」と名のり清須に寺を建立、「寶林山圓勝寺」と号しました。名古屋開府後尾張藩主の命により慶長16年(1611)現在の飯田町に移り、慶長19年には浄土真宗本願寺派となりました。明治24年(1891)の濃尾地震で本堂、庫裏を残して倒壊し、明治39年鐘楼、山門、玄関が再建されましたが、再び昭和20年3月の空襲で山門を残して焼失しました。現在の本堂は昭和51年の再建です。

DSC05490円勝寺縮小 IMG_2992山門鬼瓦
  空襲で焼け残った明治39年建立の山門   鬼瓦には細かな細工の獅子が乗せられています

★参考資料 圓勝寺由緒書、聞き取り、 名古屋市史

東区寺巡り (No.6)

By , 2018年10月19日 8:39 PM

 富永山養念寺 泉三丁目3
観音院室寺に隣接した舎人公園を北に200m程行くと養念寺があります。ここはすでに「戦争の爪痕を残す風景」で穴の空いた梵鐘を紹介しましたが、寺の由緒について少し補足してみます。この寺は浄土真宗大谷派東本願寺の末寺で慶長2年(1597)現国道19号線の東、萱町に寺を建立し、同9年現在地の旧飯田町に移転したといいます。檀家であった三浦氏の娘、宣楊院が尾張三代藩主綱成の側室となり、七代藩主宗春の生母となりました。その縁で宗春の筆になる掛け軸も残されています。ということでこの寺は東区に沢山見られる清須越の寺ではありませんが尾張徳川家とはゆかりのある寺といえます。寺の奥にある庭園は寺の創建前からある古池で低地で泥土の色が黒かったため、透き通った水が黒く見え「烏ガ池」と呼ばれています。山門右にある教育委員会が設置した標札には江戸時代多くの文人・墨客が訪れたと記されています。池の見学は寺のイベントなどの催しがある時に限られています。

CIMG1486縮小 CIMG0042養念寺掛け軸
  山門脇にある標札と「烏ガ池古跡」と彫られた石柱     宗春筆と添えられた掛け軸、
養念寺で内覧会の折、撮影。

★参考 ひがし見聞録 名古屋市史

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