Category: 東区寺巡り

東区寺巡り (No.22)

By , 2019年9月21日 6:35 PM

長尾山東界寺 出来町3-1
今回は少し足を延ばして基幹バス停徳川美術館南をさらに東に行くと南北に走る中央本線のすぐ東にある東界寺を紹介します。ここまで行くと千種区の区境に近く東区の東端に位置しています。
東界寺は真言宗の寺で本尊は薬師瑠璃光如来です。尾張徳川六代藩主継友(つぐとも)公の実母、泉光院殿が亡き父の菩提を弔うため享保13年(1728)名古屋城の東方に創建されました。泉光院が三代藩主綱誠(つななり)公の側室であったことから本尊は綱誠公の念持仏であった薬師如来を賜り、薬師様の命日旧暦10月8日(現在の11月8日)の提灯祭りは参詣者が境内にあふれたといいます。当時の寺域は2000坪近くもありましたが、幸い昭和20年の戦火を免れ、戦後の区画整理で現在は1000坪弱となったそうです。本堂は平成7年頃の再建、通りに面した仁王門は平成29年11月12日に落敬法要が営まれました。左右には金剛力士像を安置、門の中央には紅白の綱が下がっています。これが薬師如来様の指に結ばれ如来様とつながり、ご慈悲を受けられるということです。毎年11月8日は本尊薬師御開帳大祭会が執り行われ、午後4時から6時まで提灯に灯りがともされます。耳の病には霊験あらたかで祈願の後、治癒すれば底抜けの柄杓(ひしゃく)を奉納します。詰まっているものが開いて通ずるようにとの祈願でからです。
★仁王門の金剛力士像は寺院に仏敵が入ることを防ぐためで、開口の阿形(あぎょう)、口を閉じた吽形(うんぎょう)で一対となり、左右に安置されています。

image1.jpeg東界寺2.jpg縮小 image1.jpeg東界寺3.jpg縮小
 金剛力士像を従えた仁王門  本堂、右手には薬師如来に繋がる綱がある
image1 (1).jpeg東界寺 2image1.jpeg東界寺金剛力士像
 中央には2本の綱が下がり、本堂へとつながっている   右手にある口を開いた仁王像の阿形(あぎょう)

★参考資料 尾張名所図会 東界寺縁起 住職様のお話し

東区寺巡り (No.21)

By , 2019年8月24日 8:37 PM

百字山瑞忍寺 徳川2町目
この寺はNo,18で紹介した「了義院」No.19「関貞寺」No.20「本覚寺」すぐ東には「片山八幡神社」と神社仏閣が徳川2町目の近隣にあります。
元和年中(1615~1623)掘り出した石仏が薬師仏と知って一堂を建立、これを本尊としたと云う。その後次第に霊験あらたかにして祈願の人が多くなり薬師というようになりました。延宝7年(1679)には本寂常照(ほんじゃくじょうしょう)という僧により阿弥陀堂を建立、祖母薬師堂(ばばやくしどう)と号した。文久3年(1863)には瑞忍寺となり浄土真宗の寺です。昭和20年の戦災(近くの三菱重工への爆撃投下)で先に紹介した三つの寺と共にこの寺も焼失、本尊の阿弥陀如来像だけは焼失を免れたと云います。江戸時代に描かれた「尾張名陽図会」には祖母薬師(ばばやくし)としてこの寺が描かれています。なお、ご住職が申されるには浄土真宗では「御朱印」のしきたりはないとのことです。

image1 (1).jpeg瑞忍寺2.jpg縮小 image1.jpeg瑞忍寺.jpg縮小
  本堂は東を向いている   この本堂は昭和の終わり(64年)頃の建立という

★参考資料 名古屋市史 尾張名陽図会 住職様からのお話

東区寺巡り (No.20)

By , 2019年8月10日 4:01 PM

照瑞山本覚寺 徳川2町目 その3
今回は3階の本堂内部の紹介です。本堂御宝前には向かって左に「鬼子母神(きしもじん)」と右には「四高祖(しこうそ)」が安置されています。鬼子母神は法華経の守護神で子守、子授けの神です。享保2年(1717)尾張六代藩主継友により尾張藩御目見地となり広間において年頭のお目見が行われた。継友は当山安置の鬼子母神を信仰して祈祷を命ぜられたといいます。残念ながら当時の像は戦災により焼失、先代の二十二世住職により本堂と表道路には石造りの」鬼子母神像が安置されました。右には「四高祖(しこうそ)」と呼ばれる日蓮上人像が祀られています。1本の木から4体の日蓮上人像が彫られたのでこのように呼ばれているそうです。他の3体は甚目寺、江南、小牧にあり江戸時代には4ケ寺を参る「四高祖参り」が盛んに行われたと云います。この四高祖も戦災で焼失、その後造られたものです。当寺は近隣住民に開かれたお寺で毎月色々な行事が開催されているようです。合気道、紙工芸、月イチ会では色々なイベントが企画され、子供お料理、お茶の会と3世代が交流できる場です。もちろん、写経会も。ホームページなどをご覧になり是非ご参加下さいということです。

IMG_4409 IMG_4411.jpg四高祖縮小
 右手にある四高祖「日蓮上人像」
 IMG_4418.jpg外にある鬼子母神 IMG_4410.jpgきしもじん縮小.jpg再度
   表道路に面して石造りの「鬼子母神」   本堂左手に安置された「鬼子母神」

東区寺巡り(No.20)

By , 2019年8月8日 4:58 PM

照瑞山本覚寺 徳川2町目 その2
本覚寺本堂に上る階段右横に大きな石塔があります。前面には「南無妙法蓮華経」と記され、背面には寄贈者の名が刻まれていますが、傍に建てられた説明書きには「明治維新後、現在地に移されたもので、以前は鍋屋上野方面から北に流れる用水路「大幸川」の瀬戸街道を横断する所に建てられてあった。世人は、此の所を「ドンド」と称してこの場所において盛大な精霊流しを行ったという。今、大幸川は埋め立てられてその跡は明瞭ではないが、現在の東大曾根本通り四丁目の北側に当たる地点である。日蓮宗 本覚寺」と記されていました。石塔には年代が刻まれておらず、これによると江戸時代末期に大幸川にて精霊流しが行われていたのでしょうか?先祖を偲ぶ当時の生活が思い起こされます。
次回は住職様に案内された本堂内部を紹介します。

IMG_4415.jpg階段 縮小 IMG_4412.jpg写真縮小
左の階段を上がると3階の本堂となります  改築前(昭和の頃)の本覚寺山門の写真。国道19号線が見える。

東区寺巡り(No.20)

By , 2019年8月1日 6:45 PM

照瑞山本覚寺 徳川2丁目  その1
連日の暑さで「東区を歩こう!」は小休止でした。
この本覚寺は永正12年(1515)江州(現滋賀県)に「妙子庵」として建立されたのが起源です。その後甲州、清須と移転。寛永元年(1624)清須越により大曾根坂上(さかうえ)現徳川3に移り、正保5年(1648)には現在地(旧大曾根坂下、現徳川2)に移り「本覚寺」となりました。身延山久遠寺の末寺で日蓮宗の寺です。現在は拡幅された国道19号線に面して本堂への階段がありますが、戦前は旧善光寺街道に面して山門がありました。No.18で紹介した「了義院」の月見の坂です。この辺りは坂上、坂下と呼ばれた起伏にとんだ地形でした。第二次世界大戦で全てを焼失、その後再建されましたが、平成元年現在のようなモダンな造りの寺となりました。外の階段を3階まで登ると本堂、エレベーターも設置された寺とは思えない近代的な建物となっています。現在の寺域は約200坪余ですが19号線の拡幅により寺域は狭くなってしまたそうです。今回は23世住職によるご案内を受け、本堂内部見学とお話を伺いましたので寺宝について「その2」として次号に掲載します。

本覚寺 縮小 本覚寺玄関
国道19号線西から見る本覚寺、斜めの屋根が目を引く  手前は本堂への階段がある。石碑もある。

★参考資料 本覚寺由緒書 名古屋市史 住職によるお話し

東区寺巡り(No.19)

By , 2019年7月12日 1:13 PM

松林山関貞寺 徳川2丁目
了義院のすぐ東にある寺で寛永7年(1630)の創建。曹洞宗の寺です。ここは名古屋台地の北端、大曾根坂上(さかがみ)の高台にあり書院からの北方の眺めは「尾張名所図会」では名古屋三景の一つとされてきました。No.18で紹介した西にある了義院も高台にあり「月見の名所」と云われ、今では建物が密集して坂も削られ想像すら出来ない地形になっていますが、美濃、越前(富山)、加賀、近江、三河、信濃、尾張北部の七州の国の山々が一望に見え、関貞寺の書院は七州閣と称せられていました。明治28年(1895)伊藤博文、桂太郎らが関貞寺からの眺望を楽しんだおり、求められ伊藤博文は「松声禅榻」の題字の扁額を、桂太郎は「七州閣」の扁額を楎毫し、現在書院に寺宝として残されています。

IMG_4122.jpg関貞寺縮小 IMG_4128.jpg大曾根の坂
  南から見た本堂   南から北に下る大曾根の坂、今ではなだらかな坂。

★参考資料 関貞寺由緒書 ひがし見聞録

東区寺巡り (No.18)

By , 2019年6月27日 8:32 PM

妙見山了義院 徳川2丁目
前回の無量寿院を北へ山口町交差点をさらに北へ徳川町交差点のすぐ北に了義院があります。この寺は清須越の寺で慶長年間(1596~1615)に名古屋正万寺町(現中区丸の内辺り)そして当地と三遷、しかし創建年ははっきり分からないようです。昔は成就院といい、この辺りは今もなだらかな坂を見ることが出来ますが当時は月見の名所として「尾張名所図会」「尾張名陽図会」にも描かれています。
松尾芭蕉は貞享5年(1688)7月、三日月を眺める名所と聞いていたこの大曾根の成就院を訪れ、折からの三日月を大曾根の坂の上から眺めて句を詠みました。芭蕉50回忌の寛保3年(1743)に俳句好きの住職が芭蕉の句に因んで三日月塚を建立しました。その後一時期廃寺になりますが天明3年(1783)改宗して大光寺の末寺として再興、日蓮宗の寺となっています。昭和20年の戦災で三日月塚は破損、破片をつないで修復しましたが昭和24年その横に新石碑が建立されました。現本堂は昭和40年の建立ですが本堂の前には鳥居が見られます。明治維新後神仏分離となりましたが、以前の名残を留めている珍しい寺です。

1image1了義院 縮小 DSC00155.jpg1縮小
 本堂の間には鳥居がある。ここは日蓮宗の寺です。   奥が新石碑、手前が戦災で破壊後修復された石碑

★参考資料 名古屋市史 ひがし見聞録 東区の歴史 尾張名所図会

東区寺巡り (No.17)

By , 2019年6月9日 3:54 PM

光明法林山 無量寿院(むりょうじゅいん) 代官町27
文化3年(1816)武蔵国大久保村(現東京都新宿区)の尾張藩江戸下屋敷に建立された精林庵が前身のこの寺は安政3年(1856)尾張七代藩主宗春菩提のため尾張の当地に移されました。この寺はNo.16で紹介した永平寺名古屋別院と同じ御下屋敷(おしたやしき)の邸内にあったもので現在でも道一つ隔てた北にあります。宗春は将軍吉宗と対立し、元文4年(1764)尾張藩御下屋敷に謹慎蟄居の身となりました。明和元年(1764)69歳で没した後建中寺に葬られましたが、幕府から謹慎が解かれたのは没後70年を経てからと云います。尾張十代藩主斉朝公(なりともこう)の命により尾張江戸下屋敷に宗春の菩提を弔うため精林庵が建立されました。安政3年(1856)にはこの尼寺精林庵を尾張の御下屋敷の薬草園があった北東部に移しました。その4年後には「無量寿院」と改めました。浄土宗の寺で代々尼寺で、昭和32年には現本堂が建てられました。

IMG_4095.jpg本堂入口縮小 IMG_4093.jpg切り抜き
 昭和32年建立の本堂  庫裏前の教育委員会の標札

御下屋敷は北は代官町から南は葵1丁目(桜通りをはさむ)に及ぶ6万4千坪の広大なもので尾張二代藩主光友が造営した尾張藩の別邸です。現東生涯学習センター(葵1丁目)もかつては御下屋敷跡の一部でで正面玄関右にはそれを説明する標札も建てられています。

CIMG1480.jpg御下屋敷縮小 CIMG1481.jpg御下屋敷 切り取り

★参考 ひがし見聞録 東区の歴史 名古屋市史

東区寺巡り(No.16)

By , 2019年5月20日 2:17 PM

永平寺名古屋別院 代官町41
桜通り小川町交差点を東へ200m程行くと北側に永平寺名古屋別院があります。正式な名称は大本山永平寺別院法安殿護国院ですが簡略に永平寺名古屋別院と呼ばれているようです。この永平寺別院の開創は文政3年(1820)頃に尾張10代藩主の徳川斉朝(なりとも)が名古屋城西方の景雲橋辺りにあった慶雲軒450坪の屋敷を尾張藩主の隠居後の別邸、お下屋敷(おしたやしき)に移転したことに始まります。このお下屋敷は7代藩主徳川宗春が最晩年に蟄居した所で7万坪にも及ぶ広大な敷地でした。長期の謹慎処分をうらんで霊が出るとのうわさにより、お下屋敷の北東に宗春の霊の祈念所、徳川家の祈願所を創建、護国院清久寺と号しました。明治維新後は徳川家による保護も失われ頽廃(たいはい)を極めました。明治43年本堂再建に着手、大本山永平寺出張所としての性格を明示しました。本山はおよそ750年前に道元禅師により開祖された現在の福井県永平寺、曹洞宗です。昭和20年3月19日の空襲で全てを焼失、昭和33年に「永平寺別院」に昇格、昭和35年本堂が再建、昭和60年までには主要な建物が順次完成しました。平成21年11月には開創200年大祭、永平寺別院昇格50周年を祝う大祭が行われました。境内西側には前田利常(金沢藩三代当主、利家の四男)の刻印石が置かれていますが、同様の刻紋が名古屋城二の丸にあります。

IMG_4067.jpg山門縮小 IMG_4061.jpg縮小
 平成17年に完成した山門  前田利常の刻印石、何故ここに?お下屋敷にあったもの?

★参考資料 名古屋市史 永平寺名古屋別院開創200年大祭(由緒書)

 

東区寺巡り(No.15)

By , 2019年5月1日 12:12 PM

定覚山 善光寺 筒井1丁目
平成から令和となるこの日、しばらく休んでいた「東区を歩こう!」は前回自然寺から少し西へ筒井小学校北にある善光寺まで歩きました。場所はNo,14自然院の地図をクリックすると大きくなり、筒井小学校の北にあります。

DSC05272.jpg縮小 DSC05273.jpg善光寺縮小

この寺は「善光寺如来縁起」によると1400年前の推古天皇の時代、信濃の国(現飯田市坐光寺)の住人であった本田善光(よしみつ)が都に上り、難波の水中に出現した阿弥陀如来を拾い上げこれを背負って帰国の途中尾張黒田の宿に一泊、夜半に如来は善光の夢枕に立ち善光の辛苦を哀れみ善光を背負い一夜にして信濃の国へ飛び立ったと云います。善光は帰国後、仏を刻し黒田の地に一寺を建立、定覚山善光寺(黒田の善光寺)と名付けたと故事にあります。

DSC05282.jpg縮小 DSC0528縮小
 黒田にある 善光寺如来の石碑   一宮市教育委員会による史跡 善光寺跡

この寺は室町時代廃滅、愛知県那古野村(現名古屋市西区幅下あたり)に移転、清須越により東区鍋屋町裏(現泉二丁目)に移されました。その後昭和20年の空襲で全てを無くし、昭和28年に復興のため筒井町の現在地に移りました。この寺は天台宗の寺です。
戦前の鍋屋町裏は国道41号線と旧鍋屋町が交差する辺りで藩政時代の城下図によると現高岳町から清水口に至る南北の道は善光寺筋と呼ばれていました。

その後故郷の信州麻績(おみ)の里(現飯田市座光寺)にも寺を建立し、元善光寺となりました。642年皇極天皇の時御託宜により現在の長野市に遷座、長野の善光寺となりました。善光寺の名は本田善光(よしみつ)の名を取ったもので、飯田の元善光寺、長野の善光寺と両方合わせて参詣するよう「善光寺の片参り」などと呼ばれています。
★参考資料 尾張名所図会(黒田の里) 尾張名陽図会(善光寺如来縁起) 善光寺縁起

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