Category: 東区寺巡り

東区寺巡り(No.9)

By , 2018年12月13日 6:36 PM

東岳山長久寺 白壁3丁目
東区の紅葉もそろそろ見納めとなります。本題の東区寺巡りに戻り、今回は禅隆寺を北へ(早咲き桜みち)基幹バス通り(左に金城学院高校)を渡り200m程の「長久寺」の紹介です。昭和50年代の町名変更により、長久寺町から白壁町になりました。この寺は慶長15年(1610)の清須越により現在地に移され、名古屋城の鬼門鎮護の寺とされました。真言宗智山派、本尊は不動明王です。表門は豪華な一間薬医門で清須から移したものです。名古屋城の東にあるこの地は北と東に坂や崖があり、特に北を見ると今でもその名残はありますが当時は見晴らしの良い高台となっていました。そのため尾張名所図会(おわりめいしょずえ)には「長久寺八景」と称した景勝の地として描かれています。
境内には将棋駒形の供養塔「庚申塔(こうしんとう)」が祀られ、江戸時代盛んになった庚申信仰による三匹猿「見ざる」「言わざる」「聞かざる」が石碑に浮彫されています。江戸初期の寛文8年(1688)の刻印があり、昭和53年には「市指定文化財」となりました。毎年8月の夜には庚申まつりが行われています。

IMG_3047長久寺正門 DSC01123庚申塔縮小
 清須から移された薬医門       うずくまった鬼の上に本尊の青面金剛の像が
三匹の猿を従えている。

★参考資料 ひがし見聞録 長久寺縁起

東区寺巡り (No.8)、

By , 2018年11月25日 8:39 PM

宗興山禅隆寺 飯田町36
前回の圓勝寺を50m程西へ行くと禅隆寺があります。市バス「飯田町」のバス停前です。この寺は元和9年(1623)尾張初代藩主義直より寺地を拝領して創建された臨済宗妙心寺派、京都妙心寺の末寺となっています。本尊の釈迦如来は義直寄進のものです。八代藩主宗勝、九代藩主宗睦(むねちか)の生母の菩提所であり、この寺も尾張徳川家とはゆかりのある寺となっています。戦災で本堂は焼失しましたが、清須から移築した山門と山門を入り左手にある観音堂は創建当時のものです。現在の本堂は昭和44年に再建されました。
山門を入るとモミジが沢山植えられ名古屋市内にあって紅葉の名所と言われる程見事に色づきます。今年は夏の暑さと急な冷え込みが少なく今日25日現在、日の当たる上部は色づいていますが、日陰とか地面に近い所はまだ緑がみられます。見頃は来週あたりかと思いますが、そんな頃是非お出かけください。

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 創建当時の山門 山門右手に色づいた紅葉  門を入り左手観音堂、紅葉が見られる

★参考資料 東区の歴史 ひがし見聞録

東区寺巡り(No.7)

By , 2018年11月15日 4:19 PM

寶林山 圓勝寺 飯田町49
しばらく秋のイベントを追って歩きましたが、本題の「東区寺巡り」に戻って歩きます。
今回は養念寺を北へ外堀通り線を渡り突き当たった位置にある「圓勝寺」です。もとは甲斐府中にあり、天台宗でした。武田氏滅亡後7人の武士が清須に移りそのうちの一人が仏門に入り「善了坊」と名のり清須に寺を建立、「寶林山圓勝寺」と号しました。名古屋開府後尾張藩主の命により慶長16年(1611)現在の飯田町に移り、慶長19年には浄土真宗本願寺派となりました。明治24年(1891)の濃尾地震で本堂、庫裏他が倒壊し明治39年鐘楼、山門、玄関が再建されましたが、再び昭和20年3月の空襲で山門を残して焼失しました。現在の本堂は昭和42年の再建です。

DSC05490円勝寺縮小 IMG_2992山門鬼瓦
  空襲で焼け残った明治39年建立の山門   鬼瓦には細かな細工の獅子が乗せられています

★参考資料 圓勝寺住職様聞き取り 名古屋市史

東区寺巡り (No.6)

By , 2018年10月19日 8:39 PM

 富永山養念寺 泉三丁目3
観音院室寺に隣接した舎人公園を北に200m程行くと養念寺があります。ここはすでに「戦争の爪痕を残す風景」で穴の空いた梵鐘を紹介しましたが、寺の由緒について少し補足してみます。この寺は浄土真宗大谷派東本願寺の末寺で慶長2年(1597)現国道19号線の東、萱町に寺を建立し、同9年現在地の旧飯田町に移転したといいます。檀家であった三浦氏の娘、宣楊院が尾張三代藩主綱成の側室となり、七代藩主宗春の生母となりました。その縁で宗春の筆になる掛け軸も残されています。ということでこの寺は東区に沢山見られる清須越の寺ではありませんが尾張徳川家とはゆかりのある寺といえます。寺の奥にある庭園は寺の創建前からある古池で低地で泥土の色が黒かったため、透き通った水が黒く見え「烏ガ池」と呼ばれています。山門右にある教育委員会が設置した標札には江戸時代多くの文人・墨客が訪れたと記されています。池の見学は寺のイベントなどの催しがある時に限られています。

CIMG1486縮小 CIMG0042養念寺掛け軸
  山門脇にある標札と「烏ガ池古跡」と彫られた石柱     宗春筆と添えられた掛け軸、
養念寺で内覧会の折、撮影。

★参考 ひがし見聞録 名古屋市史

東区寺巡り (No,5)

By , 2018年10月4日 8:47 PM

谷汲山観音院室寺(むろでら) 泉三丁目7
貞祖院をさらに東へ歩いてみます。旧鍋屋町に出て東へ50mくらいで「圓明寺」がありますがここは前回のシリーズ「戦争の爪痕を残す風景」で紹介したのでリンクして見て下さいね。ここを通り過ぎると南にひし形の舎人公園がありこの公園の北東に「谷汲山観音院室寺」を見つけることが出来ます。すぐ東には国道19号線が走っています。浄土宗の寺で延宝3年(1675)に創建、徳川義直の側室の母のために堂宇を再興したとのことでここも尾張徳川家とのゆかり有る寺です。本尊は11面観世音菩薩像です。No,4で紹介した貞祖院が焼けた天明2年(1782)の大火でそこから程近いこの寺も焼失しました。門前の両側には「谷汲山」と記された石塔があり、美濃の国(岐阜県)にある谷汲山は西国33カ所巡りの結願33番札所です。境内左手には江戸時代後期(文政年間~天保年間)に造られたという西国33カ所巡りの観音石造が祀られ、お揃いの前掛けを着け後世の人々を見守っているようです。しかしながら境内にあった大きな楠木もいつの間にかバッサリ切られ、最近では寂れた感じさえします。近所では「お地蔵様」の寺として親しまれていましたが古老たちがだんだん亡くなりお参りする人も少なくなったようです。

 
観音院室寺
IMG_2578観音院縮小
  本堂前の赤いロウソク立てが、うまく調和している
IMG_2581谷汲山縮小 IMG_2579観音像縮小
 谷汲山と彫られた石塔が左右にある  お揃いの前掛けがかわいい

★参考資料 名古屋市史

東区寺巡り (No.4)

By , 2018年9月27日 7:25 PM

喜秀山 貞祖院 泉三丁目
No,3で紹介した遍照院から少し東へ歩いてみます。この一帯は昭和52年前後の住居表示変更以前は舎人町とよばれていました。今回の貞祖院も徳川家ゆかりの寺で清須城主であった松平忠吉(家康四男)の養母が慶長12年(1607)28歳という若くして亡くなった忠吉の位牌所として清須に建立したのが始まりです。その3年後慶長15年この養母が亡くなり、その戒名から貞祖院玄白寺と称しました。浄土宗の寺で17世紀中ごろまでに清須より当地に移されたと云います。(諸説あるようで門前の標識より)天明2年(1782)の大火により寺坊を焼失、その後は仮本堂が建てられました。明治5年(1873)同じ浄土宗の建中寺より尾張徳川家御霊廟(おたまや)を譲り受けこれを本堂として現在に至っていると云います。幸いにも昭和20年の空襲にもかろうじて難を逃れました。本堂内部は漆喰や天井は外陣は格天井、内陣は折り上げ天井で極彩色です。名古屋における江戸時代建築の遺稿として歴史的価値のあるものです。
残念ながら本堂の中へ通常入ることは出来ませんが、イベント、寺院公開の折には見ることが出来ます。11月3日の「歩こう!文化のみち」のイベントには公開されます。ぜひ見学して下さい。

貞祖院
DSC05292貞祖院縮小
DSC05291本堂 貞祖院格天井071
 貞祖院本堂   本堂外陣の格天井(ひがし見聞録から)

★参考資料 ひがし見聞録、貞祖院由緒書、門前標識、寺社建造物

東区寺巡り (No.3)

By , 2018年9月11日 1:51 PM

摂取山 遍照院(へんじょういん) 泉二丁目

今度は高岳院から東へ一区画隔てただけの寺を案内しましょう。
開山は「尾張名所図会」によると元和の頃(1615~1624)願誉念宗坊とあります。元和7年(1621)堂守の僧、念宗(ねんしゅう)和尚が藩主義直に願い出てこの地を拝領し、知恩院末寺「念宗寺」としました。延宝8年(1680)には遍照院と改称しました。名所図会には本堂の脇に石造の五重塔と地蔵堂が描かれていますが、現在は寺の前の道沿いにお首地蔵と33観音があります。33観音は当寺10世により越後国村上から寺蔵堂を移転したのが始まりです。お首地蔵は昭和11年(1936)に建立され頭痛に効能有りと云われています。この寺は古地図によるとNo.2で紹介した高岳院(こうがくいん)から東に100m程の地にあり、開山当初は地続きでした。清須越の寺ではありませんが尾張徳川家とは係わりのある寺です。昭和20年の戦災、その後の区画整理により高岳院とは離され寺領も狭くなっています。現在は一部駐車場にもなっています。
★参考資料 尾張名所図会、ひがし見聞録

遍照院
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IMG_2564縮小 IMG_2565首地蔵
  境内にある石造五十の塔   33観音の左に置かれた首地蔵

東区寺めぐり(No.2)

By , 2018年9月3日 9:13 PM

持名山 高岳院(こうがくいん) 泉二丁目1
No.1で紹介した大光寺は平岩親吉(ちかよし)ゆかりの寺と紹介しましたがもう一つ平岩親吉ゆかりの寺を紹介したく高岳院まで歩いてみました。
親吉には子供がなく徳川家康の八男仙千代を養子に迎えていましたが慶長5年(1600)6歳で早世、仙千代菩提の為親吉所領のあった甲斐(甲府)に浄土宗の持名山教安寺を建立、その後親吉の国替えと共に清須へ、慶長16年(1611)現在地に移り寺名も仙千代の法名から「高岳院」と名を変えました。当時の寺領は3000坪にも及ぶ広大なものでしたが、明治には800坪程になったと云います。昭和20年の空襲ですべてを焼失、その後国道41号、19号(桜通り)の新設、拡張により寺領は再び狭くなりました。明治4年までは町名は「高岳院前(こうがくいんまえ)」、その後「高岳町(たかおかちょう)」、昭和52年の住居表示に関する法律により「泉2丁目」と名が変わりました。現在では地下鉄桜通り線の駅に「高岳(たかおか)」の名を残すのみです。云われのある町名がだんだんなくなっていくのは寂しいですね
尚、高岳院をこの地に移した慶長16年12月30日に(1600)平岩親吉は死去しました。

高岳院
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 西隣のガソリンスタンド、北のビルも寺領    高岳院山門

★参考 東区の歴史、ひがし見聞録、尾張名所図会

東区寺めぐり (No.1)

By , 2018年8月25日 11:20 AM

「戦争の痕跡を残す風景」シリーズはおりしも終戦記念日の前日に終了となりました。各メディアでもその頃になると戦争の悲惨さを物語る記事が多く取り上げられました。東区でも73年も経過した現在、その痕跡は数少なくなってきましたが忘れてはならない貴重な遺物です。新しいシリーズは「東区寺めぐり」と題してあちこちの寺を探して歩きます。東区に建立されている寺は何らかの形で尾張徳川家に繋がっている寺が多く、すでに「東寺町」と題してこのブログで発信してきました。右のカテゴリーから「東寺町」を選んでご覧ください。各寺にはそれぞれの由緒があります。そんな云われを紹介します。

妙瑞山 大光寺  泉二丁目5 

大光寺
この寺は天文年間(1532~55)甲州武士により群馬県に創建された寺と云います。徳川家康の重臣平岩親吉(ちかよし)のゆかりの寺で日蓮宗の寺です。慶長の初め現群馬県前橋に移り「大光寺」と名を改めました。親吉の国替えで甲府、さらに清須へ移転、慶長15年(1610)清須越で東区の現在地へ移りました。昭和20年3月、B29による空襲で本堂、山門すべてを焼失、その後昭和40年本堂が再建されました。江戸時代の古地図で見ると参道は旧鍋屋町に面してあり、敷地も広大であったようです。

 清須越とは名古屋城築城に伴う清須から名古屋への都市の移転で慶長17年(1612)から元和2年(1616)頃迄に行われました。住民、建物はもちろん、町名、橋の名(五条川は良く知るところ)までも移され、のちに清須越と云われました。「きよす」の文字については明治22年までは清須と表記されていたので今回はこの「清須」を使います。

image1 image1 (010)大光寺本堂
  大光寺山門   本堂はインドの仏塔風の様式です

★ 参考資料 大光寺由緒書、ひがし見聞録、東区の歴史

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