Category: 東区寺巡り

東区寺巡り(No.19)

By , 2019年7月12日 1:13 PM

松林山関貞寺 徳川二丁目
了義院のすぐ東にある寺で寛永7年(1630)の創建。曹洞宗の寺です。ここは名古屋台地の北端、大曾根坂上(さかがみ)の高台にあり書院からの北方の眺めは「尾張名所図会」では名古屋三景の一つとされてきました。No.18で紹介した西にある了義院も高台にあり「月見の名所」と云われ、今では建物が密集して坂も削られ想像すら出来ない地形になっていますが、美濃、越前(富山)、加賀、近江、三河、信濃、尾張北部の七州の国の山々が一望に見え、関貞寺の書院は七州閣と称せられていました。明治28年(1895)伊藤博文、桂太郎らが関貞寺からの眺望を楽しんだおり、求められ伊藤博文は「松声禅榻」の題字の扁額を、桂太郎は「七州閣」の扁額を楎毫し、現在書院に寺宝として残されています。

IMG_4122.jpg関貞寺縮小 IMG_4128.jpg大曾根の坂
  南から見た本堂   南から北に下る大曾根の坂、今ではなだらかな坂。

★参考資料 関貞寺由緒書 ひがし見聞録

東区寺巡り (No.18)

By , 2019年6月27日 8:32 PM

妙見山了義院 徳川2丁目
前回の無量寿院を北へ山口町交差点をさらに北へ徳川町交差点のすぐ北に了義院があります。この寺は清須越の寺で慶長年間(1596~1615)に名古屋正万寺町(現中区丸の内辺り)そして当地と三遷、しかし創建年ははっきり分からないようです。昔は成就院といい、この辺りは今もなだらかな坂を見ることが出来ますが当時は月見の名所として「尾張名所図会」「尾張名陽図会」にも描かれています。
松尾芭蕉は貞享5年(1688)7月、三日月を眺める名所と聞いていたこの大曾根の成就院を訪れ、折からの三日月を大曾根の坂の上から眺めて句を詠みました。芭蕉50回忌の寛保3年(1743)に俳句好きの住職が芭蕉の句に因んで三日月塚を建立しました。その後一時期廃寺になりますが天明3年(1783)改宗して大光寺の末寺として再興、日蓮宗の寺となっています。昭和20年の戦災で三日月塚は破損、破片をつないで修復しましたが昭和24年その横に新石碑が建立されました。現本堂は昭和40年の建立ですが本堂の前には鳥居が見られます。明治維新後神仏分離となりましたが、以前の名残を留めている珍しい寺です。

1image1了義院 縮小 DSC00155.jpg1縮小
 本堂の間には鳥居がある。ここは日蓮宗の寺です。   奥が新石碑、手前が戦災で破壊後修復された石碑

★参考資料 名古屋市史 ひがし見聞録 東区の歴史 尾張名所図会

東区寺巡り (No.17)

By , 2019年6月9日 3:54 PM

光明法林山 無量寿院(むりょうじゅいん) 代官町27
文化3年(1816)武蔵国大久保村(現東京都新宿区)の尾張藩江戸下屋敷に建立された精林庵が前身のこの寺は安政3年(1856)尾張七代藩主宗春菩提のため尾張の当地に移されました。この寺はNo.16で紹介した永平寺名古屋別院と同じ御下屋敷(おしたやしき)の邸内にあったもので現在でも道一つ隔てた北にあります。宗春は将軍吉宗と対立し、元文4年(1764)尾張藩御下屋敷に謹慎蟄居の身となりました。明和元年(1764)69歳で没した後建中寺に葬られましたが、幕府から謹慎が解かれたのは没後70年を経てからと云います。尾張十代藩主斉朝公(なりともこう)の命により尾張江戸下屋敷に宗春の菩提を弔うため精林庵が建立されました。安政3年(1856)にはこの尼寺精林庵を尾張の御下屋敷の薬草園があった北東部に移しました。その4年後には「無量寿院」と改めました。浄土宗の寺で代々尼寺で、昭和32年には現本堂が建てられました。

IMG_4095.jpg本堂入口縮小 IMG_4093.jpg切り抜き
 昭和32年建立の本堂  庫裏前の教育委員会の標札

御下屋敷は北は代官町から南は葵1丁目(桜通りをはさむ)に及ぶ6万4千坪の広大なもので尾張二代藩主光友が造営した尾張藩の別邸です。現東生涯学習センター(葵1丁目)もかつては御下屋敷跡の一部でで正面玄関右にはそれを説明する標札も建てられています。

CIMG1480.jpg御下屋敷縮小 CIMG1481.jpg御下屋敷 切り取り

★参考 ひがし見聞録 東区の歴史 名古屋市史

東区寺巡り(No.16)

By , 2019年5月20日 2:17 PM

永平寺名古屋別院 代官町41
桜通り小川町交差点を東へ200m程行くと北側に永平寺名古屋別院があります。正式な名称は大本山永平寺別院法安殿護国院ですが簡略に永平寺名古屋別院と呼ばれているようです。この永平寺別院の開創は文政3年(1820)頃に尾張10代藩主の徳川斉朝(なりとも)が名古屋城西方の景雲橋辺りにあった慶雲軒450坪の屋敷を尾張藩主の隠居後の別邸、お下屋敷(おしたやしき)に移転したことに始まります。このお下屋敷は7代藩主徳川宗春が最晩年に蟄居した所で7万坪にも及ぶ広大な敷地でした。長期の謹慎処分をうらんで霊が出るとのうわさにより、お下屋敷の北東に宗春の霊の祈念所、徳川家の祈願所を創建、護国院清久寺と号しました。明治維新後は徳川家による保護も失われ頽廃(たいはい)を極めました。明治43年本堂再建に着手、大本山永平寺出張所としての性格を明示しました。本山はおよそ750年前に道元禅師により開祖された現在の福井県永平寺、曹洞宗です。昭和20年3月19日の空襲で全てを焼失、昭和33年に「永平寺別院」に昇格、昭和35年本堂が再建、昭和60年までには主要な建物が順次完成しました。平成21年11月には開創200年大祭、永平寺別院昇格50周年を祝う大祭が行われました。境内西側には前田利常(金沢藩三代当主、利家の四男)の刻印石が置かれていますが、同様の刻紋が名古屋城二の丸にあります。

IMG_4067.jpg山門縮小 IMG_4061.jpg縮小
 平成17年に完成した山門  前田利常の刻印石、何故ここに?お下屋敷にあったもの?

★参考資料 名古屋市史 永平寺名古屋別院開創200年大祭(由緒書)

 

東区寺巡り(No.15)

By , 2019年5月1日 12:12 PM

定覚山 善光寺 筒井1丁目
平成から令和となるこの日、しばらく休んでいた「東区を歩こう!」は前回自然寺から少し西へ筒井小学校北にある善光寺まで歩きました。場所はNo,14自然院の地図をクリックすると大きくなり、筒井小学校の北にあります。

DSC05272.jpg縮小 DSC05273.jpg善光寺縮小

この寺は「善光寺如来縁起」によると1400年前の推古天皇の時代、信濃の国(現飯田市坐光寺)の住人であった本田善光(よしみつ)が都に上り、難波の水中に出現した阿弥陀如来を拾い上げこれを背負って帰国の途中尾張黒田の宿に一泊、夜半に如来は善光の夢枕に立ち善光の辛苦を哀れみ善光を背負い一夜にして信濃の国へ飛び立ったと云います。善光は帰国後、仏を刻し黒田の地に一寺を建立、定覚山善光寺(黒田の善光寺)と名付けたと故事にあります。

DSC05282.jpg縮小 DSC0528縮小
 黒田にある 善光寺如来の石碑   一宮市教育委員会による史跡 善光寺跡

この寺は室町時代廃滅、愛知県那古野村(現名古屋市西区幅下あたり)に移転、清須越により東区鍋屋町裏(現泉二丁目)に移されました。その後昭和20年の空襲で全てを無くし、昭和28年に復興のため筒井町の現在地に移りました。この寺は天台宗の寺です。
戦前の鍋屋町裏は国道41号線と旧鍋屋町が交差する辺りで藩政時代の城下図によると現高岳町から清水口に至る南北の道は善光寺筋と呼ばれていました。

その後故郷の信州麻績(おみ)の里(現飯田市座光寺)にも寺を建立し、元善光寺となりました。642年皇極天皇の時御託宜により現在の長野市に遷座、長野の善光寺となりました。善光寺の名は本田善光(よしみつ)の名を取ったもので、飯田の元善光寺、長野の善光寺と両方合わせて参詣するよう「善光寺の片参り」などと呼ばれています。
★参考資料 尾張名所図会(黒田の里) 尾張名陽図会(善光寺如来縁起) 善光寺縁起

東区寺巡り(No.14)

By , 2019年4月13日 1:34 PM

 宝池山自然院(じねんいん)筒井4丁目
前回の情妙寺を少し西へ、筒井町通に沿って自然院があります。承応(じょうおう)元年(1652)布が池(現在の布池辺り)に相応寺(尾張初代藩主義直生母菩提寺)の開山であった眼誉呑屋(がんよどんおく)上人により相応寺の末寺として開山されたものです。布が池の辺りあった持念院という古寺を移して建立した浄土宗の寺で「布池山持念院」と名付けられました。この寺の本尊は眼誉呑屋上人が京都黒谷光明寺から持ち帰ったことから「黒谷門前」と呼ばれていました。
元禄8年(1695)には尾張三代藩主綱誠が布が池のお下屋敷を広げるにあたって現在の筒井町へ移転、山号を宝池山に改めました。当時の広さは3300坪もあったといいます。現在の敷地は729坪、境内には筒井幼稚園も創設され、山門の右手横には地蔵菩薩、周りには可愛い6体のお地蔵さんも見られます。右手の石碑には「花道千秋流家元」その下には小さく黒谷(くろたに)自然院と刻まれています。ここは嘉永5年(1852)花道家元「千秋流」の本家であり、自然院11代住職が宗家であったことから継承されています。

IMG_3981.jpg縮小 地図切り取り   地図の上でクリックして下さい。大きくなります。
赤矢印が自然院
石柱には 花道千秋庵家元 右下には黒谷(くろたに)
 IMG_3985.jpg縮小  山門を入ると左手に幼稚園、奥に本堂があります。IMG_3984.jpg縮小
  座っている可愛いお地蔵様

★参考資料 名古屋市史・ひがし見聞録・自然院由緒書・尾張名陽図会

東区寺巡り(No.13)

By , 2019年3月23日 4:45 PM

源頂山 情妙寺 筒井4丁目39
覚音寺の次は南へ筒井町まで歩き、この通りを東へ100m程行くと情妙寺があります。情妙寺の沿革を記す前に初代茶屋四郎次郎清延について述べてみます。清延は京都の豪商で代々四郎次郎を名乗ります。本能寺の変(1582)で家康の伊賀越えに尽力(情報提供の隠密)家康の命を救ったことから江戸幕府が誕生した後、徳川家の呉服御用を一手に引きうけました。文禄元年(1592)には豊臣秀吉から朱印船貿易の特権を与えられ南蛮貿易に従事しました。清延の三男、新四郎長吉(ながよし)が慶長19年(1614)尾張藩主義直に付けられ名古屋に来たのが尾州茶屋家の始まりです。茶屋家は徳川家の庇護を受けたことで徳川家呉服調達、両替商と特権商人でした。

IMG_393寺標 IMG_3933標識

その新四郎長吉が慶安2年(1649)家康の位牌所として建立したのが日蓮宗の「情妙寺」です。この寺に茶屋家から寄進された「茶屋新六交趾渡航図巻(こうちとこうずかん)は県指定文化財で、家康の許可を受け鎖国までの間ご朱印船貿易を営んできた茶屋家の船がベトナムに渡航した様子が描かれています。新六は尾州茶屋家二代目(新四郎良延のこと)交趾とはベトナムのことです。ベトナムホイアン旧市街には中世日本人の遺跡が残され、「貿易陶磁博物館」では日本、中国、ベトナムの陶磁器が展示されています。その中で茶屋家がベトナムに渡航した「情妙寺」と同じ渡航図巻が展示されています。清延の本家は四郎次郎を名のった京都の豪商、三男は新四郎を名のった尾州茶屋家、四男は紀州茶屋家で茶屋家御三家と云われていました。現在では尾州茶屋家のみが名を変え存続しています。

DSC01013縮小  貿易陶磁器博物館
 情妙寺で見せて頂いた渡航図の一部、茶屋家二代目
新六が館の右端に見られる
    ベトナムホイアン貿易陶磁博物館にあった同じ渡航図

★参考資料 ひがし見聞録 名古屋市史 ブルタニカ国際大百科辞典 名古屋市教育委員会標札 ホイアン旧市街観光案内パンフレット

東区寺巡り(No.12)

By , 2019年3月7日 9:04 PM

金龍山覺音寺(こんりゅうさんかくおんじ)新出来1丁目5番
覺音寺はNo.11で紹介した徳源寺の東隣の位置にあります。沿革としては室町時代の天文10年(1541)に現赤塚周辺に建立されたのが起源です。延寶(えんぽう)5年(1677)には寺地を現一宮市北方曽根、その後古(ふる)出来町、そして寶永2年(1705)に当地と四遷しています。正徳年間(1711~1716)尾張徳川家梅昌院(尾張三代将軍綱誠(つなのぶ)の側室)の帰崇を受け寺号を覺音寺と改めました。梅昌院は本願寺と寺縁深く現本願寺名古屋別院の存立と興隆に大きな庇護となった方です。文化6年(1809)には真宗大谷派に転派しました。鐘楼は明治14年の再建、明治45年には本堂を10年の歳月をかけ総欅造りで再建しました。しかし昭和20年の空襲で名古屋市全土が焦土と化しましたが、覺音寺は西隣にある徳源寺の釈迦堂とともに奇跡的に焼失を免れ、今日もその姿をとどめています。なお梵鐘は戦時中供出したといいます。昭和60年の名古屋市区画整理事業により西へ移築、山門もその折再建したということです。
なお、今親鸞と言われた「清沢満之(まんし)」の家は覺音寺に近く明治11年覺音寺の衆徒として得度した修行寺です。満之は東京帝国大学哲学科と大学院を卒業、明治21年碧南市西方寺の娘やすと結婚し清沢姓なりました。満之は明治の宗教界にあって「信仰の仏教」を樹立し宗門の改革に務めました。

IMG_3695本堂縮小 IMG_3690明るさ、縮小
  明治45年再建の総欅づくりの本堂   明治14年再建の鐘楼、昭和60年西へ移築

★参考資料 東区の歴史、 覺音寺由緒書、ひがし見聞録

東区寺巡り(No.11)

By , 2019年2月17日 8:43 PM

蓬莱山徳源寺 新出来一丁目
「東区寺巡り」を再開してさらに北へ歩いてみます。基幹バスが走る山口町と徳川園新出来バス停の中央辺りです。沿革は文禄2年(1593)織田信長の次男信雄(のぶかつ)が熱田に「清涼山宝仙寺」を建立したのが起源です。その後幾多の変遷を経て延亭元年(1744)現在地に移転しました。臨済宗妙心寺派の寺となっています。境内は戦後の都市計画で狭くなりましたが、およそ5200坪の境内に、山門、勅使門、本堂、仏殿、開山堂、禅堂、鐘楼などが建ち並んでいます。
1.禅堂(左下の写真)は非公開ですが文久2年(1862)に建立、徳源寺では最も古い建物で現在でも雲水(修行僧)修行の場となっています。平成10年に解体修理されました。
2.山門(右下の写真)は明治45年建立の高麗門(城郭門)で本柱の上に切妻屋根がのり、本柱には控え柱を備え本柱と控え柱の間に切妻屋根が掛けられています。

IMG_3425禅堂 IMG_3413山門縮小

3.  仏殿(釈迦堂)は明治42年に建立安置されましたが、その折には露座で銅製の釈迦涅槃像が北を枕に西を向いて安置されていました。明治45年には仏殿が出来後部には五百羅漢が祀られました。日本では珍しい仏殿で涅槃像は5mを超える大きさです。
4.本堂は昭和28年竣工、鉄筋コンクリート造り約二百畳の広さがあります。庫裏との間には「瑞心の庭」と称し、石庭が造られています。

IMG_3417涅槃像切り抜き縮小 IMG_3420本堂と庭
仏殿の涅槃像の後ろには五百羅漢が祀られています  本堂と石庭

5.開山堂はこのブログの 写真にはありませんが禅堂の北にあり残念ながら非公開です。 岐阜県の豪農の寄進によるもので昭和10年に完成、左に寄進者の位牌、天井には河合玉堂作「雲竜図」が描かれ見事です。
但しこれはレブリカで本物は県美術館に保管されています。

境内には桐の大木があり、4月初めには見事に咲き東区民に親しまれています。蛇足ですが、この徳源寺の北向かえにはわらび餅で有名な和菓子司「芳光」があり和菓子党の良く知る所です。
★参考資料 ひがし見聞録、 徳源寺由緒書

東区寺巡り(No.10)

By , 2018年12月25日 8:44 PM

徳興山建中寺 筒井一丁目
今年最後の「東区を歩こう!」は少し足を延ばして東へ国道19号線を渡り建中寺の紹介です。この寺は慶安4年(1651)尾張二代藩主徳川光友が父である藩祖義直の菩提を弔うため創建したもので尾張藩の菩提寺、浄土宗の寺です。今から実に367年前に創建されました。江戸時代には4万8千坪、周囲に石垣と溝を巡らした厳重な構えで総門、三門、本堂、経蔵、歴代藩主の御霊屋が建立されました。しかし、天明5年の大火(1785)で総門、三門その他一部を残して焼失しましたがその2年後の天明7年には本堂、経蔵などが再建され、現在に至っています。現在の敷地は約千坪、建中寺の三門南側の道路から総門までは戦後の復興で名古屋市に買収され、建中寺公園として市民に親しまれています。名古屋市立あずま中学、東海学園中高等学校も江戸時代は建中寺の敷地でした。
本堂は間口27m、奥行25m、建坪210坪に及び、木造の本堂としては名古屋市最大級で「名古屋市指定文化財」に指定されています。

今年も後わずか、建中寺では大晦日に除夜の鐘がつかれ、一般参拝者が鐘をつくことが事が出来ます。今年も12月1日から100円で配布される参加券はすでに完売となったようです。大晦日23時30分から始まり観覧することが出来ます。今年は是非建中寺の除夜の鐘を聞きながら新年を迎えてはいかがでしょう。この一年ブログを愛読いただき有難うございました。来年も「東区寺めぐり」は続きます。又ご一緒に歩きましょう。

IMG_3067総門 IMG_3070三門
IMG_3075本堂 IMG_3076山門葵
上段は建中寺公園南の総門・ 下段は本堂 上段は本堂前の三門・ 下段は葵の家紋のある山門扉

★参考資料 名古屋市史寺社編 ひがし見聞録

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