「文化のみち橦木館」にある二宮金次郎像 橦木町2
橦木館は大正末期から昭和初期に陶磁器輸出業を創業した井元為三郎によって建てられました。和風建築の母屋と洋館のある和洋併置型の住宅で他に茶室、蔵などがあります。南の日本庭園は枯山水の所々に燈籠が置かれ、西の端には「二宮金次郎」の石造物があります。あまり大きくありませんが、聞くところによると元々南にある山吹小学校にあったものだが戦後の教育勅語に合わないとかで当時の井元家の当主が譲り受けたものと云われています。最近見かけなくなった像ですが、じっと見ているととても可愛くゆったりとした気分になります。
平成8年には名古屋市有形文化財に指定され、現在洋館1階は軽食、喫茶室に利用、庭を眺めてゆったりとした時間を過ごすことが出来ます。
百人町どんぐり広場 百人町102
建中寺東に位置する百人町は江戸時代、同心組屋敷地として軍事上の目的を持って人為的に造られた町で、明治維新からは組屋敷から一般住宅地に変わった地区になりました。現在ここに「百人町どんぐり広場」があります。ここはかつて百人組同心吉田氏所有の土地で十代目孟辰氏が大正3年社会福祉事業の拠点「和孟会館」を建て活用した場所です。その後この建物は老朽化し取り壊されました。昭和36年土地を名古屋市に寄付、同42年には名古屋市でいち早くこの広場が「どんぐり広場」の愛称とともにどんぐり広場の第1号となりました。15年程前はこのどんぐり広場の周りには明治期の面影を残す建物も有りましたが、現在ではほとんどが新築住宅に建て替わりこのどんぐり広場だけに当時を偲ぶことができます。
石碑の北面には「奉仕」と刻まれています。
上面には「この地は吉田家先祖の旧跡にして社会福祉事業発祥の地なり」と刻まれています。
佐野屋の辻にある「中村家」の石碑 泉3丁目
国道19号線と旧鍋屋町(現泉3丁目)が交差してる角には「善光寺街道」と刻まれた道標があります。この道標は明治10年(1877)入れ歯業であった加藤新兵が建立したと刻まれています。この道標のすぐ隣の空き地(サノヤ駐車場)に「中村家発祥の地」と刻まれた石碑が置かれています。通り過ぎる人はほとんど気が付かない小さな石碑です。佐野屋中村家は佐野屋という豪商で名古屋城築城のころ、丹羽郡千秋村(現一宮市)の佐野からこの地に移り住み営業を始めた2軒の店の名前です。交差点の北西角に「酒屋佐野屋」代々当主は清左衛門、東南角には「味噌屋佐野屋」代々当主は与衛門、があったことから佐野屋の辻と呼ばれていました。佐野屋の辻は東を走る国道19号線が出来るまでは50mくらい西を北に折れ曲がり相生町とつながり、この道が善光寺街道となります。現在サノヤ駐車場となっている辺りは南東にあった「味噌屋」の付近です。
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善光寺街道の道標、上は現国道19号線 |
歩道の植え込みに置かれている |
石碑には 「中村家発祥之地 昭和五十年 八月 十二代当主 」と刻まれています
弓道家「星野勘左衛門宅跡」 武平町
江戸時代前期の尾張藩士、星野勘左衛門(1642~1696)宅は中区に隣接する武平町にありました。東区は弓箭筋(ゆみやすじ)という町名があったように弓術の名家が他にも沢山ありました。寛文9年(1669)京都三十三間堂の通し矢では総矢数10,542本中8,000本の矢を的に当て、長期にわたり天下無双を保持しました。これらの功績により、禄高は800石と加増されたといいます。没後は東区「高岳院」に葬られ、墓は千種区「平和公園」内の高岳院墓地にあります。
★ここは現在、東区と中区が交錯するところで南北の武平通りを挟んで東隣は中区「ノリタケショールーム」があります。勘左衛門の石碑はスター銀行の敷地内北東角の植え込みの中にあります。
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尾張二代藩主光友の弓術指南役である。当時各藩の弓術家が競い合った京都蓮華王院・三十三間堂の通し矢にいどみ寛文9年(1669)5月8000本の的を当て弓術日本一となった。この記録は貞享3年(1686)・18才の紀州藩の弓術家和左大八郎に破られたが、この時勘左衛門はその射場に行き掌を治療するなど大八郎を励ましたといわれ、武士道の鑑(かがみ)と賞賛された。元禄9年(1696)55才で没したがその門弟は5千人に及んだといわれている。
(以上のように石碑に刻まれています)
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妙道寺門前「高梨五左衛門邸跡」 主税町三丁目
遠霑山(おんでんさん)妙道寺は明治14年(1881)3月、大石寺(静岡県)の末寺として創建されました。現在の堂宇は平成3年鉄筋コンクリート造りで落成されました。
この寺の山門右脇に「尾張藩士 禄五百石 高梨五左衛門邸跡」と刻まれた石碑があります。東区主税町辺りは江戸時代中級武士(300~500石)の住む屋敷町で尾張高梨家の初代(350~500石)は藩祖義直に仕え、八代政鉾(五左衛門)は文化13年(1816)から明治2年(1869)まで、7歳から60歳までの長きに亘ってのご奉公が続きました。幕末の政治・社会の変革の中で尾張藩のため全力を注いだ人物でした。八代五左衛門は日蓮正宗の熱心な信者であったことから九代政道は名古屋を離れる時に妙道寺に土地を寄進したという。明治4年には藩士より士族となり家禄を返上したといいます。
★この石碑の背面には「当山開創130周年之砌 14代住職 法信建立」と刻まれていました。
明治14年(1881)の創建から130年を記して平成23年(2011)建立されたのでしょう。
東岳山 長久寺「庚申塔」 白壁3町目
長久寺は慶長15年の清須越によって現在地に移された真言宗智山派の寺で名古屋城の鬼門鎮護、尾州徳川藩祈願所です。本堂前庭に将棋駒形の石碑、供養塔があります。碑面には青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)、天邪鬼(あまのじゃく)、三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)が彫られています。この石碑は江戸初期の寛文8年と銘文があり、昭和53年4月名古屋市から「有形民俗文化財」に指定されました。
庚申は十干十二支の暦で60通りある組み合わせのうち、57番目にあたる「かのえさる」のことです。庚申にあたる日は60日ごとに1回廻ってきますが、その庚申祭りの日は宵に庚申様を祭って人々が飲食を共にし、一晩中寝ないで徹夜をし、談笑したりにぎやかに過ごすのが本来の意義です。三匹猿は、「見ざる」「聞かざる」「言わざる」で目、耳、口を両手で押さえ、悪い事には心をふれさせないとの意味をあらわしています。
長久寺でも毎年8月の夜、庚申まつりが行われ近所の方たちがろうそくに火を入れ、子供たちにはお菓子、ゲームなどのお楽しみなど用意されます。このお祭りも年々人出が少なくなり、2、30年前は大勢の人で賑わったということです。(写真の上でクリックすると大きくなります)
上の4枚の写真は平成25年に8月28日に長久寺で行われた庚申まつりです。
★参考資料 長久寺庚申塔の縁起、 ひがし見聞録
清澤満之(まんし)の「我が信念」 覚音寺 新出来一丁目
覚音寺は前回No.8で紹介した「清澤満之」の修行寺で浄土真宗の寺です。古くは」尾張国・一宮曽根に「河野覚音寺」と称していたが万治年間に尾張・徳川家梅昌院が浄土真宗の信仰が厚く、名古屋に寺跡を移しました。徳川美術館の南にあります。
現在の堂宇は明治45年から10年をかけた総欅造りです。
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本堂脇には「我が信念」と刻まれた石碑があります。左には覚音寺衆徒 賢亮 清澤満之と刻まれています。衆徒とは寺で学問や修行する僧のことで、満之は覚音寺の衆徒として京都の本山で得度し、法名「釋賢亮」を授かったといいます。満之はこの「我が信念」が絶筆となりましたが「我はかくの如く如来を信ず」として迷悶(めいもん)する私たちの日々に現在安住、安慰(あんに)と幸恵を与える灯といえます。背面には「清澤満之は徳永永則の子として生まれ、満之介と称し、小川空全に勧められ、覚音寺衆徒となり、りょう(了)様と呼ばれた。昭和40年と刻まれています。 |
★参考資料 覚音寺由緒書
「清澤満之(まんし)の碑」筒井小学校内
清澤満之は文久3年(1863)尾張藩士徳永永則(とくながながのり)の長男として東区黒門町に生まれました。筒井小学校の第一回生として卒業後、東京帝国大学に学び哲学科と大学院を卒業しました。明治21年大浜(碧南市)西方寺の娘と結婚、清澤姓となりました。満之は明治の仏教界にあって「信仰の仏教」を樹立し、「今親鸞」と称され、自らに厳しい求道を課し宗門の改革に務め、明治34年(1901)真宗大学初代学長になりました。しかし困難多く明治36年(1903)自坊の西方寺にて肺結核のため39歳で亡くなりました。
筒井小学校の南門内には清澤満之の領得記念碑が昭和27年満之没後50回忌の記念事業として建立されました。
★碑には「須らく(すべからく)自己を省察すべし、大道を見地すべし」と刻まれていますが、風化によって読みづらくなっています。
(修養の方法はただ一つ、「自己を省察すべし」のこれだけが欠かすことの出来ない必須条件です。それによって大道知見をたまわるのです。)というような内容です。
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石碑のすぐ南、筒井町通に沿って左の銘鈑が見られます。銘鈑は平成25年3月、清沢満之生誕150周年を記念して建立されました。銘鈑には石碑と同じ「須らく自己を省察すべし、大道を見知すべし」、「絶対他力の大道」よりと刻まれ、下記の連名がありました。
名古屋市立筒井小学校
清澤満之記念館
碧南市大浜西方寺
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参考文献 ひがし見聞録、清沢満之記念館資料
「陳元贇(ちんげんぴん)顕彰碑」 建中寺内
石造物を見つけよう!No.6で建中寺にある陳元贇(ちんげんぴん)墓所碑を紹介してから建中寺では秋のイベントが数多くあり、2回にわたりその様子をアップしてきました。今回は陳元贇の墓所にまつわる話題に戻り、建中寺にある陳元贇顕彰碑を紹介します。この石碑は本堂左手(西)にあり、高さ2m以上もあろうかと思う大きなものです。しかしながらこの碑が何であるか知る人は少なく、碑文もほとんど読み取ることができません。
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この石碑の表題は「高節千古」と書かれ、尾張徳川家第19代義親によるもので大正2年5月に建立されました。読みやすい明朝体文字で書かれてはいますが、漢文にて風化もあり読みづらくなっています。徳川美術館に隣接してある「逢左文庫」による現在語注釈によると次のようなことが書かれています。
元贇は明国の人で義にあつく国変にも屈することなく、清に仕えることを良しとせず、我が国に亡命し義直の招きに応じて尾張の人となった。人となりはすぐれ、書、詩、文章には文人の趣がある。寛文11年6月9日85歳で没し建中寺に葬られた。又諸芸にも通じ、拳法を教え、我が国武芸の元となった。今、大正2年没後242年、旧藩士あるいは名古屋の有志が元贇の功績を思い、かつ荒れた墓の改装をするとともに碑を建てる。今や故地である中国は南北戦争となり国が分裂している。この地こそ安らかな地である。有志の追遠によって御霊を慰める。 |
★中国の帰化人であった「陳元贇」の功績をたたえる顕彰碑として大正2年建立され、19代徳川義親により、したためられたものです。題額は義親公によるものです。
写真の上でクリックするともう少し大きくな、文字も少し読めます。
陳元贇(チンゲンピン)墓所 筒井一丁目
建中寺山門脇に「陳元贇墓所」と刻まれた石碑があります。陳元贇は中国(明)からの帰化人で明末期の戦乱を避けて来日。寛永15年(1638)尾張初代藩主義直に客として招かれ、蔵米六十石を受けて、東区九十軒町(旧鍋屋町、現泉三丁目)に住みました。我が国に初めて拳法を伝え、柔道の開祖と云われ儒者、詩人、建築家、陶芸家、茶道家、花道家として名が高い。又元贇焼きという菓子を創製しました。
元贇の墓は戦後の都市計画により現在平和公園内の建中寺墓所に移転されている。この石碑は昭和16年10月建立と刻まれていますが、この石碑のみ残されたのではないかと思います。