東区桜便り

By , 2018年3月21日 3:15 PM

トウカイサクラ 名古屋市市政資料館
「東海桜」は中国原産の支那実桜(シナミサクラ)と小彼岸桜(コヒガンサクラ)との種間交雑種と云われていますが、なぜトウカイサクラと名が付いたのか分かりません。東海地方で多く見られる?どなたか教えて下さい。先に紹介したオオカンサクラより花も小さく、花の色も淡いようです。小さな枝に沢山の花をつけるのが特徴でオオカンサクラより開花も少し遅いです。19,20,21日と3日連続で雨が降り続き先に紹介したオオカンサクラにはもう葉が見られる枝もありますが、トウカイサクラは満開近しです。今日の写真は雨で花が下向き青空もないので、ネットからお借りしたトウカイサクラを掲載します。トウカイサクラは東区では徳川園黒門をくぐると左右の街路樹となって見事です。コヒガンサクラは長野県高遠城が有名ですね。

IMG_1663縮小 トウカイサクラtokai
  雨を含んで花は下向きになっています  ネットからお借りしたトウカイサクラ

東区桜便り

By , 2018年3月15日 8:55 PM

四季桜とオオカンサクラ  泉二、三丁目
旧町名シリーズを「ここでちょっと一休み」して桜の開花をお伝えします。泉二丁目と三丁目を分ける飯田町辺りで名古屋市内でいち早く咲く桜「オオカンサクラ」が見頃を迎えました。10日(土曜日)に早咲き桜まつりのイベントが企画されましたが、この日は寒風の中、桜もチラホラでした。ところが昨日辺りからの暖かさで一気に満開近し、僅か五日で様子が変わってしまいました。又、昨年秋から冬にかけてしっかり花を咲かせていた「四季桜」も花付きも多くなりオオカンサクラに負けずと咲き誇っています。

IMG_1644オオカンサクラ2 IMG_1653オオカンサクラ
IMG_1640オオカンサクラアップ IMG_1645四季桜
 満開の「オオカンサクラ」    これは逓信病院南東敷地内に咲く「四季桜」
昨年秋からまだ咲いています

小公園に残る旧町名を探して(No.10)

By , 2018年3月9日 9:00 PM

長久寺公園 白壁三丁目
前回の西二葉公園の東、国道41号線(高架は名古屋高速)を渡り、その東の東二葉町と南は現在は消滅した長塀町に位置する「長久寺公園」は金城学院中学の南門すぐ東です。金城中学の敷地も江戸期には長久寺の一部であったと思われます。ここは長久寺の門前であったことから長久寺門前町と呼ばれていました。明治4年(1871)には長久寺町となりましたが、今ではその名も消滅し白壁三丁目となりました。
長久寺は真言宗の寺で清須越しにより、名古屋城の鬼門鎮守の寺として現在地に移されました。表門は清須から移築したものが現在に至っています。名古屋城の東の高台にあり、「長久寺八景」と云われた当寺の八つの景勝地も今は有りません。長久寺、長久寺公園としてのみその名を留めています。

 
長久寺南参道
IMG_1624参道縮小
   この参道の突き当りが長久寺、山門は東にある
IMG_1620長久寺公園石造物 IMG_1622公園全景
 石には「長久寺公園」と刻まれている  長久寺の南参道の南にある

小公園に残る旧町名を探して (No.9)

By , 2018年2月25日 1:45 PM

西二葉公園  白壁2丁目
今回は松山公園から随分離れて国道41号線(空港線)と桜通りの交差点高岳を北へ東片端交差点、清水口交差点まで約1kmと随分歩き、県立明和高校の近くかつての西二葉町まできました。西二葉町は明治期の成立で江戸期には尾張藩御付家老成瀬隼人の中屋敷があったところで屋敷跡の庭に古い老松があったことから明治の初めに「西二葉町」と名がつけられました。現在の国道41号線のすぐ西の南北の道は、かつての木曽街道で小牧に通じる重要な道で、成瀬隼人の居城犬山にも通じる重要な道でした。この街道をはさんで西二葉町、その東を東二葉町、清水町が入り組んで分けられていました。昭和39年から始まった住居表示に関する法律により西二葉町、東二葉町はなくなり白壁2丁目となりました。この公園に「西二葉公園」としてのみ名が残りました。
★参考資料 ひがし見聞録、東区の歴史

西二葉公園
IMG_1251地図
  西二葉公園  案内地図、写真の上でクリックして下さい
IMG_1165補正 IMG_1168西二葉公園
 西二葉公園  日当たりのよい場所にある

小公園に残る旧町名を探して (No.8)

By , 2018年2月12日 2:57 PM

松山公園 東桜二丁目
No.7の安房公園から今度は西へ、桜通り小川町交差点を渡り国道41号線との中間まで歩いてきました。
慶長年間の名古屋開府による清須越が行われた江戸期にはこの一帯に沢山の寺を宗派ごとに集めました。これは南を走る駿河街道(現国道153号線)の防御地帯とする戦略的構想から生まれています。この一帯は曹洞宗の寺院が多くあり、江戸期には「禅寺町(ぜんてらまち)」と称されていました。明治期になると「松山町」と称されその地名の由来は定かではなく、松は縁起の良い木とされるので町名としたと云われています。昭和39年以降実施された「住居表示に関する法律」に基づき町の整備が行われ新たに東桜二丁目となり、現在に至っています。広大な寺の境内の一部に道が通され宅地も出来、三角形の空き地が「松山公園」となりました。公園の西には浄土宗の「へちま薬師」、東には曹洞宗の「安斎院」が昔を偲ばせてくれます。

松山公園
IMG_1159松山公園 IMG_1160石碑
 この公園の左(西)にへちま薬師があります   松山公園と刻まれていますが公園の周囲にはネット

★参考資料 ひがし見聞録、東区の歴史

 

小公園に残る旧町名を探して (No.7)

By , 2018年1月31日 3:31 PM

安房(あわ)公園 葵二丁目
No.6の城番公園は筒井町商店街の東の端にありましたが、ここから少し西に戻り南北の車道を南へ、広い桜通りを渡り路地を入った所に「安房(あわ)公園」を見つけました。服地の大塚屋がすぐ近くです。フリガナが無ければほとんどの人が「あぼうこうえん」と読んでしまうでしょう。しかしながらこの公園名が刻まれた石の横に町名の由来が書かれ納得できるようです。読んでみると「この地域には安房小路(あわこうじ)と下方小路(しもかたこうじ)の二つの小路があり、安房小路は江戸期には「安房様屋敷(あわさまやしき)」と呼ばれていた。この二つを合わせて明治13年に安房町(あわちょう)とされました。」と説明がしてあります。
近所の方に聞くとこの公園は昨年(平成29年)12月に完成した新しい公園であることが分かりました。それまでは空き地であったそうで、最近の区画整理により、道も広くなり新しい住宅、マンションが建設され若い世代が移り住む町に生まれ変わったようです。取材中も寒さにもかかわらず子供たちの楽しそうな声が響き、説明書きに何の興味もない新住民に親しまれていく公園となるのでしょう。

安房公園

IMG_1136安房公園 IMG_1137安房町由来
この安房公園の北には、マンション。その北は桜通り 由来には尾張三代藩主徳川綱誠の19男松平通温付の家中屋敷とも、道温が幽居を命じられた時の屋敷があったとも?

★参考資料 ひがしネットHP,ひがし見聞録、東区の歴史

小公園に残る旧町名を探して (No.6)

By , 2018年1月19日 8:32 PM

城番(じょうばん)公園 筒井3丁目
手代往還公園からさらに東、そして北に歩いてみます。ここに「城番公園」を見つけましたが、何とも古めかしい名を留めています。すぐ北にある情妙寺(日蓮宗)の南門前町となっていた一帯で江戸時代城代組同心、御深井丸(おふけまる)番頭などの屋敷地で城番町と呼ばれていました。城番とは戦国時代から江戸時代にかけて城代(注)のもとにあって城の門櫓を警備、城の守衛にあたった下級武士の役職です。簡単に言えば城の番ですね。明治11年(1878)北城番小路、南城番小路、養老小路を合わせて城番町と定められましたが、昭和50年頃からの区画整理で現在は筒井3丁目となり、この公園にのみ名が残されました。
(注)城代とは大名が参勤交代などで不在の折、国元の居城で留守番を務める家臣のうち、家老職の者を城代家老と呼んだ。

城番公園

IMG_1120城番公園 IMG_1116城番町自治会
  公園の北、筒井通から南を見た城番公園  公園の南から北を見ると「城番町自治会」の名が

★参考資料 ひがし見聞録、東区の歴史、ウィキペディア

小公園に残る旧町名を探して (No.5)

By , 2018年1月8日 8:35 PM

手代往還(てだいおうかん)公園 筒井二丁目
★今年初めての投稿となり、昨年に続きこのシリーズとなります。引き続きご覧ください。
この公園は北に旧手代町(てだいまち)、南に旧往還町(おうかんちょう)として平行する東西を走る二つの町名から名が付けられた公園です。西は水筒先町、東は車道に接する町でした。二つの町は江戸期以来のもので手代町は作業型、水道方などの手代衆屋敷の屋敷があったことに由来、往還町は往還手代衆の屋敷があったことに由来しています。往還手代衆とは大道奉行に属するもので広い道の管理などを担当した役人ということです。名古屋城下において双方とも水道工事とか下仕事的な任務を担った下級武士の居住地であったと思われます。
戦後しばらくして国の事業計画「町を造りなおす計画」として新しい道が造成され昭和56年、この一帯は筒井2丁目となり手代町、往還町は消滅しました。北を走る旧手代町は広い道路となり、住宅もすっかり建て替えられ新しい道と町が誕生しました。そこに余った土地?に「手代往還公園」が造成され子供たちの遊び場が出来ました。この公園は北の手代町と南の往還町に面する南北に長い公園で旧町名が残されたわけです。しかしながら道行く住民らしき何人かに問いかけても公園の場所すら知らないとか、ここがかつて旧手代町、旧往還町であったことも知らないようでいかに時代が経ったのかを痛感します。

手代往還公園

グーグルマップには緑で表示された公園が記されていません。万福寺の斜め向えにあります。

image1手代往還公園1 image1手代往還公園2縮小
  手代町に沿ってある北の入口   往還町に沿ってある南の入口

★参考資料  ひがし見聞録、東ネット、インターネット、町の識者の話

小公園に残る旧町名を探して (No.4)

By , 2017年12月26日 9:12 PM

竪代官公園 代官町
さらに東へ歩いてみましょう。200mぐらい南東に「竪代官公園」があります。舎人公園とかこの公園は四角形ではなくひし形とか三角形の敷地となっています。おそらく戦後の区画整理により道路の造成が優先して残った敷地が公園となったのでしょう。代官町という名は江戸期にこの地方が開発された頃、ほとんどが武家屋敷で大代官「太田久左衛門」という人が初めて家を建てたことから名が付きました。代官という職は幕府、諸藩の直轄地の行政や治安をつかさどる役人の称で「お代官様」と言えば馴染みのある言葉です。
代官町の竪、横の区別は昔からあり竪代官町は御下屋敷(おしたやしき)とか御人参畑とも言われていたそうです。その一帯がかつて尾張二代藩主徳川光友の下屋敷があり、薬用人参を育てていたことに由来しています。竪、横の称は明治9年東西の町を竪代官町、南北の町を横町(よこちょう)といったことから萱屋町(かやまち)の東の竪の道を横代官町と呼びました。ややこしいですね。この一帯は昭和55、56年の住居表示変更により竪代官町、横代官町の名はなくなり萱屋町、水筒先(すいとうさき)町、平田町、布池(ぬのいけ)町など七つの町名がすべて代官町となりました。
今年1年間このブログとお付き合い頂き有難うございました。来年もこのシリーズは続きます。
引き続きご覧ください。

竪代官公園

DSC03361竪代官町公園 DSC03362竪代官町公園全景
 竪代町公園 竪代官町は国道19号線をはさんで東西の長い町名であった

★参考資料 HP東ネット・東区の歴史・ひがし見聞録

小公園に残る旧町名を探して(No.3)

By , 2017年12月16日 9:20 AM

平田公園(へいでんこうえん)代官町2
No,2で紹介した舎人公園をさらに東へ国道19号線を渡り少し北へ行くとマックスバリューがあり、その北東辺りに「平田公園(へいでんこうえん)」があります。人通りもあまりなく近所の方しか目にしないような小さな公園です。初めての方はおそらく「ひらたこうえん」などと読まれるのではないでしょうか。名前の由来は徳川家康の家臣で、最も近くに仕えた「平岩親吉(ちかよし)」の法名「平田院(へいでんいん)殿越翁休岳大居士」によるものです。親吉の菩提寺は江戸期以前は三河にありましたが、親吉の国替えと共にその所領に移転、その後名古屋城築城にともない現在地に移り親吉没後は浄土宗「平田院」と名を変えました。
平田町という町名は明治4年町名施行により「平田院町」と呼ばれ、この一帯に「平田院」と称する寺があったことに由来しています。この町名も昭和56年には消滅し、代官町と名を変え今では「平田公園」と国道19号線と外堀通り線の交差点に名を残すのみとなりました。又「平田院」は平成2年天白区へ移転、現在は寺もありません。それでも平田町交差点東に「名古屋銀行平田町支店」と西には銭湯「平田温泉」とあるのはかつての名残のようです。

平田公園[/googlemap

DSC03364平田公園 DSC03359平田公園
  くまちゃんがプレートを持ち上げています   昔の町名が残された「平田公園」

★参考資料 ひがし見聞録・平田院沿革

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