大光寺の山門
大光寺山門が建て替え中の記事はこのブログで6月16日にアップしました。予定より少し遅れ8月半ば頃に完成しました。屋根の軒瓦と鬼瓦にあたる部分には輪宝紋という紋瓦が使われました。車輪に槍が6個又は8個あり輪宝は法輪とも言われ、インドの伝説上の転輪聖王(てんりんじょうおう)が開いたと伝わりこの輪宝を転がして悪を砕いたという説をお釈迦様が継承され、仏教のシンボルとなって広まっていきました。輪宝紋は日本にも仏教伝来とともに伝来し、日本で最も古いものは薬師寺に釈迦の足跡を石に刻んだ「仏足石」がありそこに輪宝紋が刻まれています。仏像を祀ることがなかった時代、信仰の対象としたもので側面の銘文には753年と刻まれています。大光寺の山門は多くの寺にあるように雨樋を使わず昔の形式を取り入れたということです。 昭和40年本堂が建て替えられ、インドのバゴダ(仏塔)風様式で建てられた本堂入口にもこの輪宝紋が金色で飾られています。
 |
 |
山門の軒瓦の輪宝紋 雨どいは無い |
6個の槍が付いた輪宝紋 |
 |
 |
本堂全景 入口の上に輪宝紋がある |
本堂入口にの輪宝紋 ここは8個の槍 |
★参考 大光寺住職様のお話し、インターネット
禅隆寺山門改修 その後
禅隆寺の山門がとうとう取り壊されてしまいました。清須から移築した山門は第二次世界大戦の空襲も逃れ、築400年以上も耐えてきましたが老朽化により建て替えられることは7月15日の記事でアップしましたが、その山門が無くなってしまいました。あの立派な山門から覗く秋の紅葉は名古屋市内で見られる紅葉の名所で見事でしたが、今年だけは我慢です。年内には立派な山門が完成また新しい年を刻むことでしょう。
 |
 |
パイプが置かれた台は山門のあったところ |
内部から元あった山門を見るが、無い無い! |
今日の名古屋は暑い!熱中症になる人も連日数を増しています。それに加え新型コロナの感染者も全国的に増えるばかりです。ついにテレビ塔、オアシス21のライトアップも真っ赤になりました。盆休暇と暑さからでしょうか、人の数も随分少なくなっています。各県独自になった緊急事態宣言も愛知県は24日までとか、このライトアップがブルーになるのはいつのことでしょう。
お盆休暇、3連休、夏休みが重なりいよいよ人々の移動が始まり、例年徳川園を訪れる人が多いはずですが今年は新型コロナの流行で移動が制限され園内の人々はまばらでした。今日10日は気温も上がり名古屋では36.7度を記録したそうです。しかしながら徳川園の常緑樹の木陰はやはり一服の清涼感を味わうことが出来ます。龍仙湖に咲くスイレンは午前中ひと際綺麗に咲き誇っています。真夏に徳川園に咲く花は数少なく、サルスベリ、スイレンぐらいでしょうか、もう少し経てば秋の花にかわるのでしょう。
 |
 |
龍仙湖に咲くスイレン」 |
ゆったり泳ぐ鯉も絵になります |
 |
 |
餌に群がるコイは元気です |
せせらぎの小径で見つけたセミの脱け殻 |
名古屋東税務署 主税町3丁目
国道41号線、名古屋都市高速を東へ渡ると主税町3丁目になります。この道の南には東税務署があります。平成30年5月新庁舎に建て替えられることにより移転。現在は泉1丁目17が仮庁舎になっています。静かな住宅地にありながら3月の確定申告前後は申告者が詰めかけ、いつもと違った町の様子になります。ここに「税務大学」も新設されるようで令和3年3月には新庁舎が完成するようです。旧税務署は昭和33年の建築、当時としては鉄筋コンクリートの目立つ建物でした。近くには料亭「香楽」、実業家「旧豊田佐助邸」「旧春田鉄次郎」などの大正時代に建てられた建物が残り、新しい東税務署とどのよう町並みが融和していくのでしょう。時代とともに変わる町並みを見守っていきたいです。
 |
 |
中央に名古屋都市高速道路 |
東税務署、税務大学校名古屋研修所、完成図 |
禅隆寺山門の改修
禅隆寺(飯田町36)は日本最大の禅寺といわれる京都妙心寺の末寺で元和9年(1623)尾張初代藩主義直より寺領を拝領し創建された寺です。本堂は戦災で焼失したが、清須から移築した山門と観音堂は創建当時のものといいます。昭和44年に再建された本堂前の「山水菩薩庭園」には、庭全体にもみじが植えられ秋の紅葉は見事です。
しかしながら400年を超えた山門は濃尾地震、昭和30年代の道路の拡張などで二度にわたる改修を経て老朽化し、今年2月頃から工事に入り、山門と塀は新しくなるようです。現在ある山門を出来るだけ復元というかたちで新規に山門が建立されるようです。予定では年内に完成ということですが、下呂からの宮大工さんが毎日通勤で作業をされているとお聞きしました。
 |
 |
昨年の紅葉の頃の山門 |
工事に入った全景 |
 |
 |
歩道に沿って塀も取り換えとなる |
宗興山の山号 |
前号、大光寺豆知識で紹介した溝(みぞ)は元禄年間、文政年間(1818~1830)の古地図を見ると大光寺南からさらに東の養念寺辺りまで一直線に延びこの養念寺辺りで消えています。
養念寺は浄土宗大谷派東本願寺の末寺で慶長2年(1597)の創建で同9年萱町(かやまち)から泉三丁目(旧飯田町)の現在地に移転した寺です。養念寺の後園には寺の創建前から古い池があり、この池を改修し庭園にしたのが「烏ガ池」です。泥土の色が黒かったためその名が付いたといいます。この池は今でも水は枯れることはなく、又水源は地下からの湧き水ということです。松山神社の「恵みの水」も地下からの湧き水ということでこの辺りに水脈があることが想像されます。
戦後の都市復興工事で大光寺から松山神社までかつてあった道と溝は途切れ、住宅地となり現在では松山神社から養念寺、さらに東へと道を見ることが出来ます。この道を造るにあたり「烏が池」にかかり、この池を壊すことになりやむなくカーブの道になったと住職様に伺いました。現在庫裏を改修中で基礎工事で地下を掘ったら水が流れ出し、工事は慎重を期しているそうです。やはり烏が池の湧き水が関係しているのでしょう。
 |
 |
工事柵の奥が「烏が池」、カーブの道 |
庫裏の基礎工事、樹木の奥が「烏が池」 |
前回で紹介した大光寺についての豆知識です。
元禄年間(1688~1704)の城下を描いた絵図を見ると大光寺の南には細い川のようなものが描かれています。西は長者町筋から一直線に東へ、大津橋南、東片端南から大光寺南を通り飯田町養念寺あたりでその川は消えています。これは名古屋城の外堀からさらに南に防衛のため造られた溝(みぞ)のようなものです。大光寺住職様にお聞きすると幅2m、深さ2mぐらいのもので下には水がちょろちょろ流れ、戦いのときの兵士の通り道であったといいます。丁度人が通っても隠れる深さであったわけです。
その溝がいつまであったかは定かではなく、昭和20年の戦災後の都市復興計画により、大光寺敷地内の南には道路が出来、溝は埋められたのではないかとお聞きしました。今は東にある大光寺の山門は旧鍋屋町通側にあり、奥に山門、参道を通りこの溝を渡って本堂へと続いていました。この溝に架けられた橋が大光寺西の庭に移設され、この貴重な橋をあまり人々は目にすることもないかと思われます。
 |
 |
大光寺南の溝に架けられていた石橋 |
今は駐車場になった参道、奥の道から本堂へと続く |
★参考資料 元禄年間名古屋城下絵図 大光寺住職様聞き取り
泉二丁目5にある大光寺の山門が建て替え工事中です。大光寺は日蓮宗の寺で元は群馬県伊勢崎にあり、慶長の初め群馬県現前橋市へ移転しました。この寺は平岩親吉(ちかよし)と共にあり、親吉の国替えで清須へ移築、慶長15年の清須越で現在地へ移りました。山門は清須城の裏門を移築したものでした。戦災で本堂、山門、庫裏を焼失。その後本堂が昭和40年、山門が昭和57年に落成されました。山門は日蓮聖人入滅700年記念で再建されたのですが、老朽化により再度の建て替えとなりました、6月初めから7月末の予定で新しい山門が蘇ります。
 |
 |
旧山門 |
建て替え中の山門 |
★参考資料 ひがし見聞録、住職様の聞き取り
★参考 平岩親吉
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。元は群馬県前橋藩。家康側近の一人で尾張藩主義直の付け家老として尾張に移り藩政を執行した。犬山城主でもあった。