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 東区内の町名一覧  現在では地図上には無い町名も多数あります。しかし、まだまだ区民の生活の中には、町内会の名前や交差点名をはじめ、これらの懐かしい町名が根強く残っています。
 これらの町名の多くは、開府400年の名古屋の歴史を偲ばせる由緒を残しています。

相生町 ( aioi ) 葵町 (aoi)  赤塚町 (akatsuka) 赤萩町 (akahagi)
安房 (awa) 飯田町 (iida) 池内本町 (ikeuti_honmati) 石神堂町(ishigamidou)
石神本町 (ishigami_honmati) 板屋町(itaya) 裏筒井町(ura_tutui) 往還町(oukan)
大曽根町(oozone) 小川町 (ogawa)    
神楽町 (kagura) 上竪杉ノ町kami_tatesugi 萱屋町 (kaya)  車道町 (kurumamichi)
車道東町 kurumamixhi_higashi 黒門町 (kuromon) 石町 (koku_cho) 古出来町 (kodeki)
坂上町 (sakaue) 清水町(shimizu) 下竪杉ノ町shimo_tatesugi 橦木   (syumoku)   
松軒町 (syouken) 城番町 (joh_ban) 白壁町 (shirakabe) 新出来町 (shindeki)
水筒先町(suitou_saki) 杉ノ町 (sugino) 駿河(suruga) 添地  (soechi)
大幸町 (daikoh) 高岳町 (takaoka) 竪代官町 (tate daikan)   主税  (chikara)    
長久寺町choh_kyuu_ji 筒井町 (tutui) 手代町 (tedai) 徳川町 (tokugawa)
舎人町(toneri) 豊前町 (toyomae)    
中市場町 (naka_itiba) 長塀町 (nagahei) 七小町 (nanako)   七曲町 (nanamagari)
鍋屋町 (nabeya) 鍋屋上野町nabeya_ueno 西裏町 (nisiura) 西新町 (nishi_shin)   
西二葉町 (nishi_futaba) 布池町 (nunoike)    
八軒家町 (hakken_ya) 東大曽根町 (higashi_oozone) 東片端町 (higashi_kataha) 橦木 (higashi_syumoku)  
東白壁町 higashi_shirakabe 東新町(higashi_shin,  tohshin) 東新道町 (higashi_sinmichi) 東外堀町 (higashi_sotobori)
東主税町 higashi_chikara 東二葉町 higashi_futaba 東門前町 (higashi_monzen) 東矢場町 (higashi_yaba)
東芳野町 (higashi_yoshino) 久屋町(hisaya)  百人町 (hyakunin) 冨士塚町 (fujituka)
武平町(buhei) 平田町(heiden)    
前ノ町(maeno) 松山町(matsuyama) 南外堀町 (minami_sotobori) 宮出町 (miyade)
森下町(morishita)      
矢田町(yada) 山口町(yamaguchi) 山田東町 yamada_higashi 横代官町(yoko daikan)
芳野町(yoshino)    
 
 ア行
相生町(aioi)                                                        ページのTopへ
    赤塚から平田町・竪代官町筋の西へ一本、南北に走る細長い一画。この通りは多治見・ 瀬戸方面から名古屋城下にはいる街道筋だったので旅人の往来が多く、鍋屋町との角には戦前まで、『善光寺道』の道標が建てられていた。もとこの地には尾張藩の鉄砲練習の射的場があって、鉄砲塚と呼ばれていたが、慶安3年(1650)建中寺の東、東矢場町に移し、その跡に武家屋敷、町屋がつくられたといわれる。明治4年(1871)南隣りの九十軒町の一部と併せて相生町と改称した。二つの町が末永く栄えるようにとの意味がこめられて、このような町名がつけられたといわれている。  
葵町 (aoi)  
    尾張藩主の御下(おした)屋敷があった地域で明治11年(1878)いまの町名に改められた。
徳川氏の紋所である「三葉葵」にちなんで、町名としたものである。  
赤塚町 (akatsuka)
    むかしこの辺りに赤土の大きな塚があり、鉄砲の射的場となっていたが、寛文(かんぶん)3年(1664)ごろ町屋を作って以来、この名前がつけられた。神明社はもともと赤塚・山口町をはじめ、この辺りの土産神(うぶすながみ)として知られ、この参道筋として栄えてきた町である。  
赤萩町 (akahagi)
    萩はむかしから秋の七草のひとつとして人びとに親しまれてきた花で、この辺り一帯に赤むらさきの美しい花がたくさん咲いていた土地から、この名がつけられたといわれている。  
安房(awa)
    この地域に、安房小路と下方小路の二つの小路があって、明治9年(1876)いっしょにして安房町と呼ぶようになった。安房小路というのは『金鱗九十九之塵』(こんりんつくものちり)に「阿波様屋敷」とあり、この筋の東半分に御数寄屋坊主の組頭である沖久也の屋敷があって、坊主屋敷ともいわれていた。  
飯田町 (iida)
    飯田町は旧三町からなる。現在の1、2丁目は旧名作子(つくりこ)町、3丁目は田町および天道町である。作子町は遷府以前から農家があり、旧名を田町といい、寛文7年(1667)作子町と改め、明治13年(1880)飯田町に合併された。田町の東に、元和(げんな)2年(1616)小平治という人が初めて家を作り居住したので小平治町といった。その後、承応2年(1653)飯田町と改名した。江戸の飯田町の繁昌にあやかる意味でこの町名をとったということである。天道町は南北の町、現在の松山神社の旧名天道宮所在からの名称である。
池内本町 (ikeuti_honmati)                 ページのTopへ
    池内本町は、明治初年愛知郡千種村字池内(いけのうち)といっていた。千種村は明治35年(1902)に千種町となり、大正10年(1921)に東区に編入された。昭和12年(1937)千種区が成立したとき、千種町は東区から分かれたが、池内はそのまま東区内に残り、字名であった池内が町名となった。  
石神堂町(ishigamidou)
    むかしは石神堂があるところから石神堂筋といっていたのを、明治11年(1878)に積穂小路・弁天小路・山崎小路・旗小路を合わせて石神堂町と改名した。  
石神本町 (ishigami_honmati)
    愛知郡千種村北裏が大正10年(1921)名古屋市に編入され、昭和10年(1935)石神様(物部神社)の名をとって石神本町とした。  
板屋町 (itaya)
    藩政時代に板長屋があって板屋小路といっており、その東は新組同心の住居があった。明治11年(1878)になって板屋町と名をかえた。  
裏筒井町 (ura_tutui)
    もとは建中寺裏町といっていたが、明治4年(1871)筒井町裏と改め、同9年に裏筒井町となった。
往還町 (oukan)                      ページのTopへ
    むかしは通玄山筋といわれた南側の一筋だけであったが、明治11年(1878)に十軒小路・三軒小路を合わせて現在の町名となった。  
大曽根町 (oozone)   東大曽根町 (higashi_oozone)
    大曽根はもと春日井郡山田荘に属し、大曽根村が名古屋区内に編入されたのは明治13年(1880)のことである。大曽根と呼ばれる地名について『尾張地名考』によれば、曽根といわれる地名は全国に多くみられるが、いずれも城下市場などから一里はなれた地点につけられているのを考えると、背根の意味で、根は根本と等しく、あと一里で町にはいるという意味といわれている。この地は北は信州街道につながり東に折れて瀬戸街道に接し、2街道の分岐点に当たり、名古屋城下北部のただひとつの門戸となっていた。名古屋四口のひとつであり、大曽根口と呼ばれ、交通の要所としてその発展の歴史は古い。 
小川町 (ogawa)
    もと法華寺町といい、十数個の法華宗の寺院と、八箇寺の門前地子から町筋ができていた。明治5年(1872)に現在の町名に改めた。  
 カ行    
神楽町 (kagura)
    むかしは宮町の一部であったが、明治4年(1871)大津町以東を神楽と呼んだ。久屋町筋と武平町筋との間の坂を神楽坂と呼んでいたことから、その名をとって町名としたといわれる。 (なお、昭和53年の地図表示時点では、なくなっている。)
上竪杉ノ町 (kami_tatesugi)  下竪杉ノ町 (shimo_tatesugi)  杉ノ町 (sugino)
    現在桜通南側にある冨士神社は縮少されているが昔は境内きわめて広く、杉ノ町、竪杉町の交差あたりに大杉の霊木があった。このことから横の町筋を杉ノ町、竪の町筋を竪杉町といった。その後明治9年(1876)竪杉町を南北に分け、石町以北を上竪杉町、以南を下竪杉町とした。  
萱屋町 (kaya)                       ページのTopへ
    元和のむかし(1615~23)に町筋は一応整ったが、そのころは新町(現鍋屋町2丁目)の東にあったので東新町といっていた。その後寛永20年(1643)に萱屋町となった。町内にカヤぶきの家が多くあったことによる。  
車道町 (kurumamichi)
    この町筋の西北に当たる御下屋敷造営のさい、東山付近から石材を運ぶのに車を曳いて通ったところから町名がつけられたといわれる。一説にはむかし建中寺で葬式があったとき、供養の意味をかねて品物を同寺の裏門から車に積んで通った道筋とするものといわれていた。享保(きょうほ)12年(1727)に開発され、明治11年(1878)朝日町、糸屋町を合わせて車道と改称、南北1kmにわたってのびた細長い町筋である。  
車道東町 (kurumamixhi_higashi)
    明治9年(1876)車道の東のつぎの小路を一緒にして車道東町と名づけた。北地方(ぢかた)小路・南地方小路・北黒門小路・南黒門小路・勘定小路・林光小路・湯本小路・北二子小路・南二子小路・安藤小路の10小路である。  
黒門町 (kuromon)
    高岳院の眼誉上人は藩祖義直の信任が厚く、その母の葬儀も上人の手で行われたほどであった。寛永(かんえい)年間(1624~43)に義直は上人のためにその引退地として布池付近に3,000坪の地を贈ったが、京都黒谷金戒光明寺へ転じ、承応(じょうおう)元年(1652)老衰して引退の地に布池山自然院を建てて住むようになった。後元禄(げんろく)8年(1695)その東に二代光友の下屋敷を広げることのなり、自然院は現在の地に移転して宝池山と改めたが、その本尊は上人が京都黒谷からもちかえった阿弥陀如来立像であったので、だれいうとなくその門前を黒谷門前と呼ぶようになった。これが短くなって黒門町となったといわれる。もとは春日井郡であったが、明治13年(1880)に名古屋区にはいった。  
石町 (koku_cho)                     ページのTopへ
    慶長遷府のさい、石材を切ったところからという説と、むかしから清須越しの米穀商が多かったので、その数量を示す「石」をとって町名としたという説がある。現在もコクチョウと呼ばれていることから、後者が正しいと考えられるが、はっきりした根拠はない。2丁目および3丁目はもと春日井郡小牧村の者が清洲に移住してつくった町を、さらに当地に移って小牧町(はじめ山口小牧町)と呼ばれていたが、明治初年西の一町を中市場町にゆずり、その代わりに小牧町を加えて現在の石町が生まれた。  
古出来町 (kodeki)
    上野村に属していたころの古出来町は、古町屋と呼ばれていた。それほど古くから開けていたわけでなく、寛永年間(1661~72)から家が建ち始め、出来町と改めたが、元禄年間(1688~1703)豆畑をつぶして町屋にかわり、西隣りの新出来町に対して「古」をつけて古出来町といった。町屋をはさんで東西に武家屋敷が二筋あって、北の通りを北武士、南の通りを南武士と称していた。明治11年(1878)西春日井郡から名古屋区に編入された。  
 
サ行
   
坂上町 (sakaue)
    城下から大曽根村に通ずる信州街道には市内第一の大きな坂があって、大曽根大坂と呼ばれていた。町の開けたところには赤塚町上ノ切、または北の切と呼ばれていたが、貞享(じょうきょう)3年(1686)坂の上に位置することから坂上町と改称した。明治11年(1878)坂上町と坂上片町を合併して坂上町とし、同13年西春日井郡からはじめて名古屋区に編入された。このあたりは町筋に面して竹や米の運搬がはげしく、毎日市を開いているようなにぎやかさであったので、一名竹屋町という通称が生まれた。  
清水町 (shimizu)
    志水坂の坂口に井戸があったことから、清水町という町名がつけられたといわれている。明治11年(1878)に志水町に、名古屋村の内志水町を併せて清水町ができ、東区より北区が分離後、清水町は北区・東区に分割された。  
橦木  (syumoku)   橦木 (higashi_syumoku)  
    旧市電片端線の一本化を東西に平行に走って、上竪杉町で西を区切られてT字型とな     って、その地形が撞木(鐘を打つT字型の棒)に似ていることから撞木町(後に撞から橦にかわる)の名が生まれた。東西ともにむかしは武家屋敷ばかりであった。西端の小路もやがて拡張されるので撞木の名は名残となろう。  
松軒町 (syouken)                     ページのTopへ
    むかし古出来町の東北部の東西筋を北武士といい、これに対し南端の筋を南武士と呼んでいた。屋敷があった地域は東山村大字千種字松軒であって、この字名が町名となったといわれる。 
城番町 (joh_ban)
    江戸時代、城代の同心と御深井丸の番人が住んでいたことから、この名称がつけられた。同心が武士の職名の一つになったのは戦国時代からのことらしいが、与力と同じで一人前ではなく、家に付属する武士であったが、のちに騎兵部隊を与力、歩兵を同心と呼ぶようになった。さらに江戸時代には与力の支配に属し、雑務を扱う吏員のことを呼ぶようになった。区画は北城番小路・南城番小路、のち明治11年(1878)養老小路を合わせて城番町と定めた。この養老小路は別名「オカヒゴロ」とも呼び、同心の高年者の功労あるものをえらび、御深井丸の番に当たらせて住まわせたという。  
白壁町 (shirakabe)
    慶長遷府にさいして、豊田某という武士がこの地に居をかまえ、高塀をはじめて白壁として以来、武家の住宅地として堂々たる白壁の塀が建ち並んで、自然にだれいうとなく白壁町の名称が生まれた。
東白壁町 (higashi_shirakabe)
    むかしは中ノ町といっていたが、明治4年(1871)山口中ノ町、さらに同11年、白壁町の東に当るところからこの町名がつけられた。  
新出来町 (shindeki)
    二代藩主光友が名古屋城の東、大曽根村の見晴しのいい場所に別荘を建て、大曽根御殿といった。光友死後元禄15年(1702)に家老成瀬隼人正にさげ渡され、屋敷あとの一部に直参の武士の屋敷や町屋ができてきた。その東にむかしからできた町があったので、こちらには新の一字をつけて新出来町といったといわれる。  
水筒先町 (suitou_saki)                   ページのTopへ
    むかしは水塘(すいとう)先とも水道先ともいわれていた。建中寺の構内の堀からつねに 湧き流れる清水を渡す樋があったことからこの町名が起こったという。この地域が町屋となったのは元禄7年(1694)といわれている。  
 駿河(suruga)
    慶長年間、徳川家康が往来した街道筋で、駿河街道と称していたのをそのまま町名にしたのが由来といわれる。また一説にはこの地は冨士塚に近いので、富士山のある駿河国にちなんで名づけられたともいわれる。伝馬町を起点として市内を斜めに走り、足助・稲武を通って長野県飯田に通ずるこの街筋は、その後飯田街道と呼ばれ、重要な交通の根幹のひとつとなっていた。  
 添地(soechi)
    もと自然院という寺があったが、元禄8年(1695)藩主綱誠が御下屋敷を拡張しようとして、寺を建中寺の東に移し、そのあとを御下屋敷の添地とした。ついで藩主宗春のときその地を武家屋敷とし、「御下屋敷の添地」というのが通り名となり、明治4年(1871)正式にいまの町名となった。  
 
タ行
   
大幸町 (daikoh)
    この地はむかし西春日井郡六郷村のうち、その隣村は上野村で、むかしは狩津村と呼ばれていた名の通り、鳥獣が多く住み、狩に適したところのようであった。そこで隣の山の幸が豊富という意味で大幸(おおさち)と呼んでいたのを、戦国時代以後「だいこう」と音読みするようになり、それが町名となったといわれる。  
高岳町 (takaoka)
    そのむかし前津町付近は入海のうちになっており、その北方に小高い山があって、ここを汐見山と名づけ、尾張名勝のひとつとなっていた。のちこの小山に高岳院が建てられ、高岳院門前または高岳院前といったが、明治4・5年(1871~72)のころいまの町名となった。  
竪代官町 (tate daikan)  横代官町 (yoko daikan)     ページのTopへ
    むかし、この地が開発されたころ、大代官太田九左衛門という人がはじめて家をつくったことから代官町といったといわれている。竪横の区別はむかしからあったが、御下屋敷北筋とも、御人参畑(薬用)ともいわれるように、もと人参畑のあったところで、明治9年(1876)いまの町名となった。
主税  (chikara)    東主税町 (higashi_chikara)
    清須越しのとき、野呂瀬主税という人がはじめて住んだところから彼の名をとって名がつ けられたといわれる。また東主税町は古くは東千柄町または主税筋と呼ばれ、東に建中寺の森をひかえた武家屋敷の町であった。明治11年(1778)に現在の町名となった。
長久寺町 (choh_kyuu_ji)
    もとの長久寺門前(地子町)と武士の屋敷からできたもので、明治4年(1871)に現在の 町名になった。  
筒井町 (tutui)
    西は建中寺境内および門前から、東は情妙寺境内および門前に至る間をいう。建中寺門前はむかし古井村の地内に属しており、情妙寺門前は名古屋新田の中にふくまれていたが、元禄7年(1694)に町屋となった。現在の地名がついたのは明治4年(1871)のことである。
手代町 (tedai)
    この辺りはむかし手代屋敷が多かったのでこの町名がついたといわれる。裏筒井町の南の筋を一名通玄山筋といっていたが、これは天明以前、石黒通玄の扣(こう)屋敷があったことから呼ばれたものである。
徳川町 (tokugawa)                       ページのTopへ
    もと尾張藩主の下屋敷があったことからこの町名が生まれた。二代藩主光友の代に造営された屋敷は、のち家老成瀬家のものとなったが、明治以後、徳川家の屋敷となったもの。昭和初年現当主徳川義親氏から市に寄贈され、いまでは美術館・図書館・蓬左文庫・結婚式場・葵公園などがあり、市民になくてはならない存在となっている。  
 舎人町 (toneri)
    むかし舎人八左衛門という武士の先祖がこの地に住んでいたことから、この町名がついたといわれている。また一説に、慶長年間藩祖義直が鷹狩りに出かけたところ、側近出頭の舎人某が遅刻して行列に参加しなかった。この地におくれてはせさんじ、この地名を訊かれたが、家もまばらな田畑であって地名がなかったので、遅刻記念に舎人町と名づけようということになったとある。いずれにしても舎人という職名に関係のあったことは事実である。
 豊前町 (toyomae)
    明治のはじめは愛知郡千種村字豊前(ぶぜん)といわれた地域。大正10年(1921)名古屋市東区に編入され、昭和12年(1937)千種区ができたとき、千種町は東区から分離されたが、中央本線の西側はそのまま東区に残った。
 
ナ行
   
中市場町 (naka_itiba)
    もとは大津町筋と武平町筋の間二箇所であったのを明治4年(1871)石町の一部をかえて現在の町となった。もと清洲で中市場町といっていたのを、慶長14年(1609)ここに移転して前の町名をそのままつけたものである。
長塀町 (nagahei)
    この辺りはもと長塀筋といい、武家屋敷ばかりであった。北側は家老成瀬家および竹腰家のうしろにあたり、その塀が長く続いていたことからこの名がつけられた。明治11年(1878)弓箭筋(長久寺町と白壁町をつなぐ筋)を併合して現在の町となった。
七小町 (nanako)                     ページのTopへ
    もとは鍋屋町裏といって鋳物師の細工場などがひしめいて町名はなかった。明治4年(1871)七箇寺(善光寺・養蓮寺・普蔵寺・東漸寺等)があった門前を併せていまの町名がついた。
“箇”の字が“小”にすりかえられたのはいつのころからかわからない。  
 七曲町 (nanamagari)
    城下の東南部、武平町を中心とした一帯は武家屋敷であった。しかし碁盤割の区画から離れたこの付近は家の建て方や大きさもまちまちで、特に武平町の東筋は細い道筋が幾重にも曲がりくねり、このことからいつのころからか七曲町という名称が生まれた。  
鍋屋町 (nabeya)
    明治5年(1872)鍋屋町・新町・九十軒町を合併して鍋屋町となった。慶長16年(1611)旧鍋屋町は現1丁目にあたり、清須に住んでいた鍋職の者が大挙してこの地へ引越してきたのでこの名称が生まれた。現在では鍋というと台所道具と思われるが、当時は御釜役と称して鍋釜はもちろん、釣鐘から弾丸などその職域は広範囲なものであった。毎年暮れには釜役として町内の間口割で銀を取り立てて、税金を納める代わりに、他の町ではその売買を禁ずるという特権をもっていた。元祖は三代目水野太郎左衛門で、現在の同町1丁目に居を構え代々その職をつぎ今日に至っているが、いまでは鍋屋という家号の水野家が一軒だけとなった。 九十軒町は現3丁目、元和初年(1615)戸数90軒であったことからその名がつけられた。明国から帰化して尾張藩の客人となった陳元贇(ちんげんぴん)の居宅があったところ。その号菊住軒がなまったのも町名のもととの説もある。その町角に“佐野屋の辻”と呼ばれ四つ辻があったが約300年前丹羽郡千秋村字佐野から中村清左衛門、同与右衛門のふたりが道路をへだてて家を建て、ひとりは酒屋、他はみそ屋を始め、同町随一の富豪となったことから、その屋号から辻の名称がつけられた。 新町は現在2丁目で元和2年(1616)家並みがそろい、東新町1丁目とよび、その後東の字を省き、新町とのみ称することとなった。 なお消えた町名で石垣横町(逓信病院の東の通り)、専庵横町(大光寺東側の通り)がそれぞれ鍋屋町に属す。ついでながら専庵は俳人井上士朗の号である。その居宅址にちなむ。  
鍋屋上野町 (nabeya_ueno)                ページのTopへ
    鍋屋町に居をかまえた水野太郎左衛門が、以前上野村のこの地に住み、晩年再びこの     地に住んだことからこのような名がつけられたといわれる。江戸時代には鍋屋上野村と称し、『尾張徇行記』によると、山口街道の通り道にあることがみえる。  
西裏町 (nisiura)
    千種区の今池を中心に、東浦とか西浦という村が古い地図にのっているが、高牟神社の西にあった西浦という地名が、いつのまにか西裏と書かれるようになった。  
西新町 (nishi_shin)   東新町 (higashi_shin,  tohshin)
    万治(まんじ)3年(1660)市内に大火事があった後、大津町の南、蒲焼町あたりにあった武家屋敷をこの町と東新町に移した。新しくつくられた町であることから共に新町の名がつけられたといわれる。  
西二葉町 (nishi_futaba)    東二葉町 (higashi_futaba)
    名古屋城の東外堀ぞいには、成瀬家の中屋敷があった。(西二葉町)その東側は竹腰家の中屋敷があった。(東二葉町)その庭は広く古木が茂っていたが、幕末まで老松が残っていたらしい。明治初年その松の葉にちなんで二葉町と名づけられたといわれる。  
布池町 (nunoike)
    寛永19年(1642)藩祖義直の母、相応院は江戸で死去、翌年その遺骨を迎えて、名古屋城東南の大きな池の付近で盛大な葬式が行われた。このとき導師をつとめたのは高岳院住職眼誉であった。高岳院からこの池までの道に布をしきつめたという。そのことから「布ヶ池」(ぬのがいけ)の名がつけられたといわれる。天明以前の城下図は、この辺は御下屋敷の畑地であり、文化・文政のころにやっと十数軒の武家屋敷があっただけである。明治4年(1871)に布池町となづけられた。  
 
ハ行 
   
八軒家町 (hakken_ya)
    八軒家町は名鉄瀬戸線をへだてて南は東区、北側は北区に所属、同じ町名でありながらふたつの区に分かれている。この町の起源は二代藩主光友が別荘にするため大曽根に下屋敷を造営したさい、その準備として寛文(かんぶん)年中(1661~72)御庭番の足軽8人に住まわせた場所にあたり、家が8軒あったので八軒家と呼ばれた。明治4年(1871)いまの町名となった。
東片端町 (higashi_kataha)                 ページのTopへ
    名古屋城の外堀の南ぞいは片側だけが武家屋敷であったので、この通りは片端筋と呼ばれていた。現在の南外堀町はむかしは南片端、その東が東片端で明治5年(1872)に南外堀に一括されたが、同11年に東片端町は復活。現在地に当る東片端は外堀がきれているので片側だけでなく両側とも武家屋敷の町であった。
東新道町 (higashi_sinmichi)
    古くから新道筋とか竪新道とかいわれ、町の中に鳥川という川が流れていた。明治4年(1871)西区幅下にある新道町に対して、東新道町と改称した。  
東外堀町 (higashi_sotobori)
    名古屋城の外堀の東片側の町であったことから、むかしは東片端といっていたが、現在の町名になったのは明治4年(1871)ごろである。  
東門前町 (higashi_monzen)
    慶長以前市内にはわずか6寺であったものが、遷府後240ヶ寺とふえ、藩ではこの清須 越しの数多い寺院を城下の東部と南部に配し、前者を東寺町、後者を南寺町と呼び、境内敷地は無税という恩典を与えた。のち寺院の門前を地子として、慶長末から万治(まんじ)年間(1658~60)にかけ町並みをつくり、貞享(じょうきょう)2年(1685)東寺町の門前に当るので東門前町と改称された。  
東矢場町 (higashi_yaba)
    もと指矢場があったところで、明暦(めいれき)3年(1657)に京の三十三間堂をまねてつくられたものといわれる。城下の南にも矢場があった(現在の中区矢場町)ところから、東矢場といわれた。現在の町名は明治9年(1876)に定められたものである。  
東芳野町 (higashi_yoshino)
    むかしは町名を新屋敷といっており、尾張藩家老竹腰家の新屋敷のあったところである。廃藩置県のとき芳野町に対して東芳野町とした。  
久屋町 (hisaya)                        ページのTopへ
    清須越しの町で、京町筋から杉ノ町までの2町。寛文(かんぶん)5年(1665)の宗門帳では、清須越しのものは、わずか5・6戸とある。初めは干物町といっていたが、義直通行の折、町名を尋ね、以後久屋町と呼べとの命によって、今の町名となったといわれる。  
百人町 (hyakunin)
    藩政時代、百人組同心の住宅があったところで、北百人町・南百人町からなっている。明治9年(1876)に百人町の名がつけられ、同11年出雲小路を合併した。  
冨士塚町 (fujituka)
    同町3丁目の西側に富士権現を祀った塚山があったところからこの町名が起こったといわれる。徳川時代には同町はすべて武家屋敷で、禄高300石ぐらいの尾張藩中堅層の屋敷が並び、いずれも7~800坪を越す広大な家ばかりであったという。  
武平町 (buhei)
    藩祖義直の家来に松井武兵衛という御普請奉行がいた。禄高400石、清洲から遷府の際、城の南に居を構え、城下町の設計に当り、町割り・屋敷割りの検地を行って、碁盤目の区画をつくりあげた功労者である。その功をたたえてその住居付近を武兵衛と呼んだが、のち兵衛を短くして平と書くようになった。明治44年(1911)南武平町1・2丁目を当町に併せ、武平町4・5丁目とした。 
 平田町 (heiden)
    古くは古井村に属し、平田院があることから平田院町といわれていた。平田院は天徳山法蔵寺と号し、平岩親吉が三河に建立したが、慶長9年(1601)親吉が犬山城から名古屋東片端筋に移ったので、平田院も同18年現在の地に移り、寛文3年(1663)建中寺の末寺となった。平岩親吉は徳川家康子飼いの家来で、慶長12年(1602)松平忠吉清洲の城主となるにさいして、その国政をとり、禄高9万3千石、慶長17年(1612)世を去った。
 マ行    
前ノ町 (maeno)
    相応寺山門の前の町筋であったので前之町という名がついた。宝亀山相応寺は山口町の北側にあって境内3,200坪あまり、寺の格式は准別格とされ、住職は上人の称号を許されたという。京都知恩院の末寺ながらこのように格式が高かったのは藩祖義直が母親の相応院のため寛永19年(1642)この寺をたてたことによるものである。  
松山町 (matsuyama)
    むかしはこの町を禅寺町筋と呼び、曹洞宗の寺院が多くあった。明治初年小川町西の切といっていたが、同11年東門前町の一部と高岳町の一部を併せていまの町名となった。
南外堀町 (minami_sotobori)                 ページのTopへ
    南外堀の南、堀川と武平町との間にあった狭い地域であり、南片側だけ武家屋敷であったので南片端、または単に片端と呼んでいた。明治4年(1871)いまの町名が定められた。  
宮出町 (miyade)
    明治4年(1871)元宮出町・禅寺町・松広町・曹流寺より南、池田町(中区)より北を併せて宮出町をおいた。  
森下町 (morishita)
    南と西は大曽根町、東と北は郡部に接した限られた地域で、むかしは森下組と呼ばれていた。明治4年(1871)いまの町名となり、同13年名古屋区に編入された。
 ヤ行    
矢田町 (yada)
    むかしは春日井郡山田庄矢田村(寛文覚書)といっていたが、この矢田村がそのまま町名となった。江戸時代はこの付近はほとんど農家であって、水野街道(瀬戸街道)の通りにあたっていたので、小商いをする家が数軒あったといわれている。
山口町 (yamaguchi)
    慶長築城の際、今の名古屋は那古野と呼ばれる土地であり、樹木が茂り、山あり谷あり、坂も急な地域であった。この那古野山の東部の入口付近一帯はこのことから山口と総称されていた。(東区の約3/4を占める)この地に人が住むようになったのは、藩祖義直の母相応院(於亀の方)が寛永19年(1642)死亡し、その葬儀がこの山口の地で行われ(一説には布池町ともいわれる)、翌20年一面の野原に相応寺が建てられてからのことといわれる。つまり寺院ができあがってから人が後から住みついて町ができたのである。現在の町は明治9年(1876)長塀町と呼ばれていたが、同17年山口町と改められた。  
山田東町 (yamada_higashi)
    もとは山田荘の一部で、藩政時代は春日井郡山田村に当ることから、この名がつけられたといわれている。  
芳野町 (yoshino)                         ページのTopへ
    片山神社(蔵王権現)は天武天皇の和銅2年(709)の鎮座といわれる古い社である。寛 文年間(1661~72)竹腰家の家臣古田弥四郎という侍が、吉野種の桜をもってきてその境内に植えたのが次第に有名となり、廃藩置県の行われた明治4年(1871)花の芳野町が町名となった。
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