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1 陶磁器で栄えた町 (H20/9)  2 都市の森再生工房 (H21/1)
3 妙道寺 (H21/3)          4 主税町長屋門 (H21/6)
5 薫風発祥之地  (H21/8)     6 善光寺街道 (H21/11) 
7 ものづくり発祥の地 (H22/2)  8 名古屋俘虜収容所 (H22)
9 ハッチョウトンボ  (H22/9)     10 由緒ある町名(前編H22/12)
11 由緒ある町名(後編) (H23/1)
            (リンクのないものは工事中)         【照会先】東区役所まちづくり推進室 934-1123

第1回  陶磁器で栄えたまち
  
かつて、名古屋市東区は洋食器などの輸出用陶磁器の一大産地でした。

 明治29年、ノリタケの前身である森村組が全国から絵師を集めて、上絵付けの大規模工場を橦木町1に建設(敷地面積3,600坪、工員1,000人)。素地(絵付け前の白い陶磁器)を仕入れる瀬戸や多治見・土岐へ続く街道を中心に、区内にはたくさんの絵付け工場や問屋、輸出商などが軒を並べるようになりました。

 完成した製品は堀川まで馬車で運ばれて、はしけにのせられ、四日市港や名古屋港から世界中に輸出されたのです。
 昭和9年当時、区内で陶磁器関連産業に従事していた人は、約14,000人。区内にあった上絵付け工場の数は、600以上。戦前までは、日本の陶磁器輸出の約8割を、この界隈から送り出していました。

 当時の繁栄を今に伝えるのが、モダニズムの粋を集めた名古屋陶磁器会館(徳川1)、文化のみち橦木館(旧井元邸・橦木町2)と故春田鉄次郎邸(主税町3)です。
 井元為三郎は加工問屋として、春田鉄次郎は輸出商として一代でたいへんな財をなし、洋館と和館の並び立つ自邸を建てました。また陶磁器会館1階のギャラリーでは、職人たちのすばらしい技を見ることができます。
 ぜひ一度、おでかけください。                 このページのトップへ戻る

第2回 身近な材を、身近な道具に  ~都市の森再生工房の試み~

 街路樹、公園などの樹木を、”都市の森”と称し、この森の恵みを活用したいという仲間が集まったのが、「都市の森再生工房」です。
 住宅の建て替えにより庭がなくなるなど、さまざまな理由で伐採された樹木はごみとなり、活用されることはこれまでほとんどありませんでした。「それではあまりにもったいない」と、再生工房では木の幹や枝を引き取り製材して、手ごろな価格で販売。またベンチやしちりん炉台を製作して、イベントなどに貸し出しています。
  

 平成19年の火災で惜しくも本殿を焼失した赤塚・神明社。その折に切られたクスの大木は、縁台に姿を変えて社にもどってきました。平成20年夏に文化のみち二葉館で開催された「文化のみち市民遺産展」の展示用ついたてや、「歩こう!文化のみち」(平成20年11月3日開催)の際、オープンカフェで使われたベンチやテーブルも、再生工房により貸し出されたもの。ナチュラルな雰囲気が大正期の建物にも合うと大好評でした。
 たくさんの人に無垢(むく)の木のものを使ってもらうことで、身近なものを自分で作り、大切に使っていく姿勢を広めたいという「都市の森再生工房」の活動を紹介しました。
   「都市の森再生工房」(矢田東1-7) http://www.toshinomori.org/      このページのトップへ戻る

第3回 妙道寺(みょうどうじ)
剣豪が住んでいた妙道寺
 堂々たる大銀杏がシンボルとなっている主税(ちから)町3丁目の妙道寺。その山門脇に、平成20年に石碑が建てられました。「尾張藩士 碌五百石 高梨五左衛門邸跡」とあります。
 江戸期、尾張徳川家中級武士の屋敷町であった「白壁・主税・橦木町並み保存地区」に寺社はありませんでした。
 明治14(1881)年、日蓮正宗の総本山である大石寺(だいせきじ)の第52代法主・日霑(にちでん)上人が高梨五左衛門邸跡に創建したのが妙道寺です。(注1)
 見上げると、本堂軒瓦に「霑」の文字が入っています。

 戦国時代、信州中野(長野県中野市)を本拠としていた高梨氏がこの地に居住したのは、享保年間(1724年ごろ)から幕末まで。碑に刻まれている五左衛門は文化13(1816)年に家督相続し、勘定奉行並、町奉行などを務めました。祖父・新兵衛は宮本武蔵の円明流を受け継いだ剣豪であったと伝えられています。そして、高梨氏の前住者、若林治左衛門尚連(じざえもん なおつら)の祖父、四郎兵衛尚信(しろうべえ なおのぶ)も二代尾張光友に上泉(かみいずみ)流居合を指南するほどの腕前で、切支丹奉行を務めました。

 区内で江戸時代の街並みを偲ばせるものは、主税町4丁目の主税町長屋門(ながやもん)しかありません。しかし、時には文献などをたどり、このあたりに住んでいた武士たちの生活を想像してみると、見慣れた町がまた違ってみえるかもしれません。 出典「士林泝洄(しりんそかい)」、「藩士名寄(はんしなよせ)」、「袂草(たもとくさ)」
 (注1) 明治政府が神道の国教化制作を推進する中、大石寺門流では日霑上人をはじめとする歴代上人の街頭講演会などにより教化が進められ、各地に布教所が設立された    このページのトップへ戻る

第4回 主税町長屋門(ちからまち ながやもん)
~名古屋城下に当時の位置のまま残る、唯一の武家屋敷長屋門~
文化のみちエリアのほぼ中央にあたる「白壁・主税・橦木町並み保存地区」。江戸期、このあたりは中級武士の屋敷町でしたが、今では町名や区画割り以外に、江戸をしのばせるものはほとんどありません。(主税町という町名の由来は、この地に屋敷を構えた野呂瀬(のろせ)主税(ちから)の名からつけられたとされています。)

 唯一の例外が、武家屋敷長屋門の特徴である出格子(でごうし)付き番所が付いている「主税町長屋門」で、当時と変わらぬ場所に今も残っています。建築年代は定かではありませんが、江戸中期の城下絵図に平岩氏、幕末には室賀(むろが)氏の名が記載されています。明治期に名古屋城三の丸におかれた第三師団の師団長官舎となり、総理大臣に3度就任した桂(かつら)太郎(たろう)が、師団長として住んでいたことがあるということです。

 戦後は佐藤氏の屋敷門として使用され、昭和46年頃、塀および長屋の一部と母屋が撤去され、現在の大きさになりました。

 平成16年に内部を解体修理し、江戸期の状態に近づけて復元。これまで毎年11月3日に開催される「歩こう!文化のみち」の折などには公開されてきましたが、内部は貸室(2部屋)となっていて、集会室やイベントに使用できるということはあまり知られていないかもしれません。
 中に入ると、エアコンもついた現代的装備。格子越しに眺めると、見慣れたまちも違ってみえます。
江戸期の貴重な歴史的遺産の中で、作品展などはいかがでしょうか。
【照会先】東区役所まちづくり推進室 Tel934-1123        このページのトップへ戻る

第5回 「蕉風発祥之地」   出典:「尾張の俳諧」愛知郷土資料刊行会

 伊賀上野に生まれ、「蕉風」と呼ばれる閑寂で気品高い句風を確立した松尾芭蕉。晩年しばしば旅に出て、『奥の細道』などの紀行文を残していますが、その生涯のなかでもターニングポイントとなった重要な作品が、この地で生まれたということをご存じでしょうか。
 芭蕉がはじめて名古屋の人々と接したのは、貞享元年(1684)の冬、『野ざらし紀行』の旅の途上のことです。「宮町筋久屋町西入る南側、傘屋久兵衛借宅」で岡田野水ら青年俳人と連句の会を催し、句集「冬の日」(芭蕉七部集の1)を刊行しました。この「冬の日」こそが、 洒落や滑稽を主とする言葉遊びであった俳諧を、芭蕉がはじめて芸術の領域まで向上させた句集で、この連句の会を興行し、席上芭蕉が開眼をした場所を「蕉風発祥の地」とよんでいます。
 現在名古屋テレビ塔東北の脚の辺りとされるその地には、「狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」という芭蕉の句など、「冬の日」の「尾張五歌仙」表6句が刻まれた大きな石碑が建っています。碑の前では、平成17年から芭蕉顕彰名古屋俳句祭実行委員会よる芭蕉顕彰祭が行われていて、今年も10月31日に予定されています。雑詠2句1組を8月31日まで募集するほか、顕彰祭の後に愛知芸術文化センターで開催される名古屋俳句祭では、当日句(芭蕉を偲ぶ句)も受け付けます。
名古屋に全国の芭蕉ファン・俳句ファンが集まる催しに、あなたも参加してみませんか。
* 徳川2丁目の了義院にある三日月塚には、芭蕉の句『有とあるたとへにも似ず三日の月』が刻まれている。戦災で原碑が破損したため、昭和24年(1949)、隣に新碑が建てられた。
(広報なごや 平成21年8月号から)        このページのトップへ戻る
 

第6回 善光寺街道

 名古屋の城下は東海道、中山道などの主要街道から離れており、江戸期にはそれらに通じる脇街道が発達しました。伝馬町(中区錦二丁目)から赤塚-大曽根-勝川-内津峠を経て、美濃で中山道と合流し善光寺へと向かう善光寺街道もそのひとつです。
 清水口から北へ伸びる木曽街道が尾張藩の公式街道で別名「上(うえ)街道」と呼ばれたのに対し、善光寺街道は庶民が使う非公式の街道だったことから、「下(した)街道」と呼ばれていました。
延長14里半(58キロメートル)の道は木曽街道より4里余り短く、川沿いの比較的平坦な道であったため、名古屋方面からの御岳参りや善光寺参り、木曽方面からの伊勢参りなどの利用者がとても多かったばかりでなく、本来禁止されている荷物輸送もさかんに行われていました。
 東区内には、国道19号線代官町交差点南西角に「←善光寺道」「→京大坂道」という道標が残されています。明治10年(1877)、その少し西の「佐野屋の辻」と呼ばれるところに建てられたのが、区画整理にともない現在地に移されたもので、いれば業*であった加藤新兵衛によるものと刻まれています。
赤塚交差点から旧街道を南に入ると、江戸期尾張藩御用達の油商であった「熊野屋」、和ろうそくの「有賀商店」などがあり、往事の賑わいを忍ぶことができます。このあたりは道をかぎ型に曲げ直進を防いだ枡形の防御機構も残っています。                    このページのトップへ戻る

第7回 ものづくり発祥の地

東区には武家屋敷が多くあり広い敷地が利用できたこと、家内手工業の技術を持った士族が多く住んでいたことから、明治になると新しい産業が興ってきました。
明治10年(1877)、愛知県が士族の子女に織物の技術を習わせるために建設した織物工場(久屋町・旧町名表記。以下も同様)を皮切りに、同13年マッチ製造所(石町)、同20年時計製造所(杉ノ町)、同28年ガラス製造所(西二葉町)、同39年バイオリン製造所(松山町)と、次々に工場が建てられます。
豊田佐吉が豊田商会を創業し、ノリタケの前身である森村組が全国の絵付け工場を集結して橦木町に大工場を建設するのも、明治20年代のことです。東区は名実共に時計、機械、陶磁器、工作機械など近代工業発祥の地である事がわかります。
明治23年、竪代官町で創業した愛知織物(別名「丸織」)は、明治末に従業員千人を超える規模に拡大。代官町・筒井町商店街が、映画館などが並ぶ名古屋でも有数の繁華街となるきっかけとなりました。今も代官町会館敷地内に残る石碑には「丸織跡 街園*」とあります。これは、土地区画整理事業で愛知織物跡地が街園となったことを記念して建てられたものです。
街角に立つ石碑に目をとめてみると、いろいろな発見があるかもしれませんね。
*街園とは交差点等にできた、道路の中の小さな空地。枝を大きく広げた大木や、噴水・花壇等の施設で、道路景観のポイントとなり、道行く人のちょっとした憩いとつどいの場ともなっている。(出典「2009年みどりの年報」p136)
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第8回「名古屋俘虜収容所」
 数年前、徳島県鳴門市の板東俘虜収容所を舞台にドイツ人俘虜と日本人の交流を描いた映画が公開されましたが、ここ東区にもドイツ人俘虜収容所があつたということをご存じてしようか。
 大正3年(1914)、日本軍はドイツの極東本拠地・青島を攻略し、ドイツ人約4500人が日本に送られました。名古屋では当初東本願寺別院に収容していましたが、翌年、東区古出来町に新設された収容所に移送されました。
 多い時は500人以上が収容されていたこの収容所では、俘虜たちは敷地内に作られた畑を耕し、テニスや本操、サッカーなどのスポーツを楽しみました。
 また、合唱団やオーケストラ、劇団なども結成されました。
 その頃の日本は、欧米に追いつくために工業の近代化を図つていた時期、産業振興にドイツ人俘虜の力をかりるということもありました。
 当時、半田にあつた製粉会社では、機械修理をきっかけに俘虜が工場に出入りするようになり、製パンにおける技術提携が始まりました。第一次世界大戦終了後は、残留した俘虜を高頷の給与で初代技師長として迎え入れ、大正8年
(1919)、名古屋市東区に製パン会社が設立されました。
 平成15年(2003)4月、名古屋日独協会により収容所跡地の旭丘高校には「日独友好の碑」が建てられ、その歴史を伝えています。          このページのトップへ戻る

第9回 ハッチョウトンボ (日本一小さなトンボ) <H22/9月号>

日本一小さなトンボが、東区にもいたことを ご存じでしようか。
 ハッチョウトンボという体長が 1.5-‐2センチメートル弱、1円玉にすつぽり入ってしまう国内最小、世界の中でももっとも小さな種のトンボです。

 ハッチョウトンボの名前は、江戸時代の本草学者・大河内存真(おおこうち ぞんしん)が記述した当時の昆虫図説|こ「ヤダノテツポウバハツチウメ(矢田鉄砲場八丁目)にのみ発見せられ、そのためハッチョウトンボの名を有する」と記録したことが由来となつています。
 「矢田鉄砲場」というのは、江戸期矢田川河川敷にあつた尾張藩の鉄砲練習場のことで、現在の大幸公園付近ではないかという説があります。 大河内存真が活躍した江戸末期には、このあたりでたくさん見られたのでしょう。

 残念ながら現在では、矢田川河川敷でハツチョウトンボを見ることは出来ません。名古屋市内では、東山植物園で8月中旬ころまで見ることができま。また、音ながらの自然が残る水深の浅い湿地や休耕田などで、5月中旬ごろから9月中旬ごろまで飛んでいるのが確認されています。

  ハッチョウトンボを探しに、お出かけしてみてはいかがでしようか。

*大河内存真 (おおこうち ぞんしん)(1796-1883)
江戸時代後期の医家、本草学者。植物学者・伊藤圭介の兄。尾張名古屋藩医浅井貞庵に学び、同藩奥医師となる。日本産『毘虫図譜』などを記した。                       このページのトップへ戻る

第10回 由緒ある町名(前編) ~江戸期に成立したもの~ (H22/12)

 江戸から明治、大正、昭和を経て、この400年の間に町は大きく変わりましたが、名前の由来を調べてみると、その町の歴史をひもとくことができます。住居表示が変更される前の旧町名(注1)をみてみましょう。
 城下町が造営された際に、東区内には旧来の町に加えて武家屋敷や清須越の町などが配置されました。その中にはどんな人たちが住んでいたかが推測できる地名があります。
 手代町(てだいまち)<現:筒井二丁目>は、手代衆(注2)の居宅があったところから、その東の城番町(じょうばんちょう)<現:筒井三丁目>は名古屋城の警備をする城代組同心の屋敷があったところから名付けられました。
 また、鍋屋町(なべやちょう)<現:泉二丁目>は、尾張藩から特権を受けた御鋳物師(おんいもじ)をはじめとする多くの鍋職人が清須から越してきた町でした。代々尾張藩御釜師(おんかまし)を勤めた家が、今も残っています。

 江戸時代の地形からその名がついた町名もあります。七曲町(ななまがりちょう)<現:東桜一丁目>は、碁盤割から外れたこのあたりが家の建て方も大きさもまちまちで、町筋が曲がりくねっていたところから名付けられました。
 坂上町(さかうえちょう)<現:徳川二丁目>は大曽根村から城下に通じる入り口に城下一の坂があり、その坂の上に位置することから町名が生まれました。今では坂道は緩やかになっていますが、戦前、時には馬車が沿道の商家に突っ込んでくるほど急であったため、「大曽根の大坂」と呼ばれていました。 
        新旧町名対照図             このページのトップへ戻る

最終回 由緒ある町名(後編)

 東区の北東部には、昔からの地名が残っているところがいくつかあります。
 矢田町(現:矢田一~五丁目・矢田南一~五丁目)は、織田信長の次男信雄(のぶかつ)の朱印状に「矢田」と記されている古い地名です。その由来は諸説ありますが、平安時代の末期に起こった前九年の役(1051-1062年)のとき、夏の暑い時期に義家がこの地を通り水を所望しましたが水飲み場はありませんでした。そこで近くの農民にたずねると水は足下にあるといわれ、家臣が矢を出に突き刺したところ、おいしい水が噴き出したという伝説も残っています。

 江戸期以前から春日井郡大幸村と称されていた大幸一~四丁目は、矢田川左岸に位置していることから大河と1呼ばれてたとか、醍醐森というところがあったので醍醐と呼ばれるようになったという説、鳥獣が多く住み、狩りに適した場所だったことから、山の幸も豊かということで大幸(おおさち)と呼んでいたが戦国時代に音読みするようになったという説などがあります。

 砂田橋一~五丁目は、もともとこの地区を流れていた大幸川にかけられていた橋の名「砂田橋」によります。現在は地下水路となっていますが、大幸川は江戸期につくられた人工川で、北区内で黒川と合流し、堀川へと流れていました。

 あなたの町の旧町名は何ですか?由来を調べてみるとなにかが発見できるかもしれません。  このページのトップへ

 『東区ものがたり』は今回で最終回です。長らくのご愛読、ありがとうございました。

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